女神の肖像

 ひとつの争いが終わり、この町の人々はふたたび立ち上がろうとしていた。家屋を失い、田畑を失い、家畜を失い、家族や友さえ奪われて、それでも歩みだすより他はなかった。
 僕はここの出身でも、住人でもない。ただ徴集されてやってきたよそ者に過ぎない。だから深く立ち入ることを恐れて、最低限の会話しか交わさなかった。それは共に派遣されてきた者たち相手にも同じことだった。
 与えられた作業をこなすほかは、僕は空いた時間を絵を描くことに費やしていた。
「今日も描いているのね」
 すっかり崩れてレンガの山と化した建物を前に、鉛筆を走らせている時だった。柔らかな声に振り向くと、ほとんど色素のない髪を揺らす女性が立っている。その眼差しは見守る母親のようにも、好奇に満ちた少女のようにも見えて、年齢は判別しかねた。もっとも判断に困ったのは、そのせいばかりじゃない。
 彼女は全身いたるところに傷があり、頭や顔にもたくさん刻まれている。左耳はすっかり失われ、右目の周囲はただれて鱗のようになっていた。
 言葉に詰まっていると、彼女はかまわず僕の手元を覗き込んでくる。そして瓦礫と見比べ、わらった。
「まるでそのまま封じ込めているかのよう」
 スケッチブックを手渡すと、彼女は一枚一枚を興味深げに眺めた。描かれているのはどれもこの町の風景だ。それは戦争の爪痕にほかならない。彼女の心の傷を抉るだろう。
 それなのに彼女の表情は歪むどころか、いっそう優しくなって見えた。
「描くのが好きなのね」
「ちがうよ」
 そっと瞼を閉じる。さっきまで写し取っていた、崩れた建物を思い浮かべようとした。レンガの色。形。数。いくつ積み重なっていて、どこが壊れていて、どれくらいの大きさか。
鮮明に記憶したつもりでも、目を開くとずいぶん違う。スケッチブックの建物のほうが、まだ本物に近い。
「記憶なんて曖昧だ。ここもやがて撤去される。そしたらもうどんな風だったかなんて分からなくなって、きっとあったことさえ忘れられる」
 大事なものも、そうじゃないものも。僕はひたすら絵に描いた。目に見える形にしたかった。たとえ僕が忘れても、そのものがなくなっても、跡は残る。描くというのは僕にとって、そういう意味のある行為だった。
「わたしも、忘れてしまうのかしら」
 彼女が天を仰いだ。雲ひとつない澄みきった青い空には、鳥の一羽さえ見られない。むなしい。あまりにむなしすぎる。
「たくさんの鳥が飛び交ってた。真っ白なのも、宝石みたいに鮮やかな緑のもいた」
 羽根の感触やくちばしの形、羽ばたき方、鳴き声。どんな風だったか、彼女は思い出せるかぎり真似してみせた。それを眺めながら、僕の手はスケッチブックの上を動いていた。
 なんという鳥かは知らない。見たこともない。ただ彼女の記憶を、写してみたかった。
「もう少し、目は小さいの。それから丸くって」
 彼女の言葉どおりに、修正を加えていく。的確な表現が見つからずに、お互いもどかしい思いをしたりもした。
「ああ、そう! こんな風だったわ」
 僕が見たままを写すよりずいぶん時間はかかったし、これが正解なのも分からない。ただ喜びはしゃぐ彼女を見ていると、これでいいのだという気もする。
 ページを破りとって渡すと、彼女はいとおしげに抱きしめた。

 それから、僕が描いているときに彼女はたびたび姿を現すようになった。たいていは黙って手元を眺めているだけだったけれど、言葉を交わすこともあった。時には彼女の記憶にある風景を絵に起こしてみることもあった。
 豊かな自然に囲まれ、たくさんの生物が命を育み、人々が活気ある暮らしをしていた頃。土に恵まれたこの地はよく作物が育ち、牧畜も盛んだったそうだ。
「けれど今は」
 広がるのはひび割れたむき出しの大地と、町だったものの残骸だけだ。植物も動物も姿を消し、かろうじて僕たち人間が動き回っている。
「元通りにはならないんだろうな」
 彼女に残る無数の傷跡を眺める。かつての彼女は、きっと美しかったにちがいない。
「そうね」
 爪のはがれた細い指が、スケッチブックの上をなぞる。ヤギの頭を撫で、ヘビの胴をさすり、木の枝に触れた。
「でも、ここにあるわ」

 僕が描きおこした彼女の記憶がどんどん増えていく。一方で、この町から戦争の痕跡が少しずつ消えていく。それはやっと片付き始めたという程度で、今度は築き上げていかなければならない。けれどそれはここの人たちが主体になってやるべきことだ。よそ者の僕らの役割はそろそろ終わろうとしている。

「もうすぐ出ていくんだ」
 いつものようにやってきた彼女に、僕はそう告げた。平静を装ったつもりでも、いざ口にしてみると重くのしかかってくる。今さら彼女とどれだけ関わっていたか気づいた。名前すら知らなかったのに。
「だから……貴方を、描かせてほしい」
 会わなくなっても、僕の記憶が薄れてしまっても、彼女がいたことが分かるように。
「ええ、もちろん」
 僕は今までの何よりもずっと、時間をかけて丁寧に写しとっていった。彼女に刻まれた傷跡のひとつひとつを、どんなに小さかろうと。
探すほどに傷は見つかる。全部はとても拾えそうにない。けれどできるだけ、残しておきたかった。
「今のわたしは、こんな姿をしているのね」
 穏やかな瞳に、一瞬だけ悲しみの青が浮んで消えた。

 僕の最後の作業は、彼女と出会ったときに描いていたあの建物を撤去することだった。それが終われば僕はもとの町に戻ることになる。
 瓦礫を運び出しながら、脳裏に浮ぶのは彼女が滲ませた強い悲しみだ。失われたかつての話をするときでさえ、彼女はやわらかく微笑み、あたたかな眼差しをたたえていた。でも本当は……なにを思っていたのだろう。
 撤去が進むにつれ、残骸のなかに金属で作られた杯や、花冠を模した飾りが姿を現し始めた。それから、なにか動物の毛皮。そして、石でつくられた鳥の羽。根元から折れてしまっている。
 その形に、僕は見覚えがあった。
「……まさか」
 心臓がどくりと大きく蠢く。指先から血が出るのも構わずに、ただ夢中で瓦礫をかき分ける。
 くるりと巻かれた角が現れた。
「そんな」
 蛇の頭がのぞく。それから人の乳房があり、蹄のついた足が伸びていた。ところどころ欠け、砕けてしまっているけれど、様々な生物のパーツを集めた石像らしい。
 それは全て、僕が描きだした彼女の記憶に存在していたものたちだった。今はもう失われて、この地に存在しないものたちだった。
 ぽたり、ぽたり。石像に雫がこぼれて弾けた。おかしいな。晴れているはずなのに。
 天を仰ぐと、熱いものが頬をすべりおりていった。

* * * *

「その絵が気に入りましたか?」
 もう閉館時間だというのに、その女性は一歩もそこから動こうとはしなかった。昼に通りがかったときには、もういた記憶がある。もしかしたら、朝からいるのかもしれない。
 女神の傷跡、と題されたその絵画は、何重にも重なる鳥の翼、大きな角に、獣の耳。あらゆる動物の部分を併せ持つ女性が、微笑みこちらを見ているというものだった。
 描かれたのはもう数百年も前で、ひとつの戦争が終わった頃だと聞いている。
「このほかにも、作品が?」
 女性が口を開いた。やわらかく透き通った声をしていた。
「いえ、作品はこれきりで。あとはスケッチが数点残されているだけです」
 豊かな自然を描いたものと、戦争の爪痕をありありと描いたものと。まるで両極端で、タッチもずいぶん違っている。
「スケッチ?」
 ずっと絵を見つめていた女性がこちらを振り返る。右目のまわりは、むかし火傷でもしたのか、赤く痕のようになっていた。
「よろしければ、見せてもらえるかしら」
 その口もとが笑みを象る。私は思わず息を飲んだ。

 その微笑みは、絵画の女神と瓜二つだった。