ナイトバードをさがして

 雲が一つも無い透き通る青空が、どこまでも広がっていた。少し離れた場所に丘が見える。おだやかな風が吹いていた。
 ふいに羽ばたくような音が聞こえ、白いものが僕の目の前に落ちた。
 一瞬、鳥かと思った。しかしそんなはずはない。拾い上げてみれば、木や紙や針金でつくった鳥の模型だった。細長いゴムの束がついていて、ねじって離せばそれで羽のパーツが動く仕組みらしい。
 僕の心臓が大きく跳ねる。
「――」
 いきなり子どもの声がした。視線を向けると五、六歳くらいの浅黒い少年が立っている。僕の知らない言語。だから聞き取れはしなかった。ただ鳥の模型を指さし、手を差し出したところを見ると、おそらく返してという意味だったのだろう。
「ごめんな」
 少年の手に模型を置く。彼はかすかに笑んでみせ、丘のほうに走っていこうとした。
 その先に大人らしい背格好のシルエットが見えた。
「ナイト!」
 ぱあっと少年の表情が明るくなる。はしゃいだ声で口にしたその言葉は、僕には間違いなくそう聞こえた。人影に向かってめいっぱい駆けていく彼を必死で追いかける。
 飛びついた少年の頭をやさしく撫でるその人物に、僕は思わず息を飲む。目尻にしわが増え、髪にも白いものが混じり始めていたが、見まがうはずはない。
「ナイトウさん……」
 それはずっと僕が捜していた、その人だった。

 かつて、世界じゅうを巻き込む大きな戦争があった。東の果て、僕が生まれた小さな島国も加わり、西の大国を相手に戦った。僕も兵士として戦場に送りこまれ、戦闘機に乗った。
 ナイトウさんはチームの隊長で、戦闘機を操る腕前は誰より抜きん出ていた。その姿はまるで闇夜に舞う幻想的な鳥のようだと、いつしかついた異名はナイトバード。もっとも、彼自身はナイトウという名前にかけたしゃれに過ぎないと思っていたらしい。また、どんなに厳しい戦況でも必ず生き残る、それをフェニックスになぞらえた人もあった。
 けれど、ある日を境に行方が分からなくなってしまっていた。
「戦争、終わったんですよ。知ってましたか、ナイトウさん」
「終わったことは知っていたよ、アサダ。……我々の敗北だったことも」
 落ち着いた、いくぶん掠れた声でナイトウさんは答えた。
 僕らはいま、丘の上にいる。子どもたちがナイトウさんの周りに集い、模型の扱い方や紙飛行機の折り方を教わっていた。中には甘えるようにもたれかかったり、腕や服を引いたりする子もいた。見慣れぬ僕に興味を抱き、寄ってくる子もいた。
 そんな彼らを見守るナイトウさんの表情はあまりに柔らかくやさしい。戦場ではいちども見たことのない顔に、僕は驚くばかりだった。
 ナイトウさんに何があったのか。なぜ連絡もくれなかったのか。どうしてここに身を置くのか。聞きたいことは山ほどあった。
「あれから七年か。あと一年もすれば、あの頃のナイトウさんと同じ年ですね」
「おれも今年で四十二か。お互い、歳をとったな」
 ナイトウさんが空を仰ぐ。僕もそれに倣った。ただただ青いだけの空間が広がっている。戦闘機の飛ばない空は、なんて平和なんだろう。
 だがナイトウさんの表情はむしろ重い。まっすぐな眼差しに、少しだけ昔の面影がのぞく。
 悲しいな、とナイトウさんが呟いた。その時はただ、年月の流れを嘆いたのだと思っていた。

 丘を越えて数キロメートル進んだところに、ナイトウさんの暮らす小さな村があった。住人の数は百にも満たない。いちばん近い町でさえ数十キロは離れていて、行き来することは稀だという。なんだかぽつんと取り残されたような場所だ。
 だから村に着くや否や、よそ者の僕が好奇と警戒のまなざしに晒されたのも無理はなかった。すぐに話は広まり、続々と人が集まってくる。何か言葉を投げる者もあったが、もちろん僕には分からない。
 するとナイトウさんが答え、みなに何か話して回った。異国の言語を淀みなく操る彼を眺めているのはなんとも不思議なきもちだ。遠い存在になった気がして、少し寂しくもある。
 僕がナイトウさんの知り合いだと分かると、とたんに緊張が解けて友好的な雰囲気が広がった。

「驚きましたよ。すっかり馴染んでいて」
 しばらくナイトウさんの家に泊めてもらうことにした。ひとりで暮らす家は、几帳面できれい好きな彼らしく、きっちり片づき整頓されている。
「昔はその、近寄りがたいところもあったから」
 棚には鳥の模型が並び、翼の大きさやパーツの形、素材などが、少しずつ違っている。机の上には作りかけの模型が置かれていた。
 戦争中もそうだった。ナイトウさんは基地で時間さえあれば黙々と模型を作り、動きや滞空時間をみては改良を加えていた。
「そうか。けれどお前は、よく慕ってくれていたな」
 ほころぶナイトウさんの顔。やはり表情がとても柔らかくなった。記憶の中のナイトウさんはもの静かで、真面目で。戦闘となると目つきが鋭くなって。あまり笑う人じゃなかった。
「嬉しかったよ」
 窓を開け、ナイトウさんが空をうかがう。冷たい風が入りこんできた。僕も彼の後ろから見やる。丸い月がぼんやり浮かんでいる。
 ヒョーと、ナイトウさんが鳴いた。風にも鳥の声にも聞こえる、寂しく悲しげな音。ヒョー。ヒョーイ。
 それからピチュピチュ、チュクチュクとさえずるように。
 懐かしかった。基地にいた頃もナイトウさんはよく鳴き真似をしていた。本物と紛うその声に、しかし答えるものはない。当時も、今も。
 諦めたように鳴くのをやめて、ナイトウさんが振り返る。
「アサダは……おれを捜していたのか」
「捜してました。ずっと」
 忘れもしない。忘れるはずがない。
 あれは戦局が相当悪くなっていた頃だ。出撃したものの、敵軍に大したダメージも与えられず次々と仲間が撃ち落されていった。残った僕らも決して無傷じゃない。
 やむなく撤退の指示が下された。全員、生きて帰れ。
 けれどたった一機、戻ってこなかった。それがナイトウさん。僕は待ち続けていたが、間もなく戦争は終結し、基地からも退かざるを得なくなった。
「僕ね、今もパイロットなんです。操るのは戦闘機じゃないけれど、空を飛んでる」
 爆弾はもう積まない。乗せるのは人や物資だ。そうして世界じゅうを飛び回って。
「空を捨てずにいたら、いつかナイトバードに出会えるかもしれない。そう信じて」
 降り立った各地でも、僕は手がかりを得ようと尋ねて回った。そして七年かかってやっと掴んだ、「ナイト」と呼ばれる極東人の存在。案の定ナイトウさんだった。
 熱いものがこみ上げてきて視界がぼやける。生きていた。ナイトバードはやはり死なない。
 しかし。
「ナイトバードは死んだ」
 重く響くナイトウさんの声。
「おれはもう飛ばない。二度と」
 強く殴られたように、頭がずきずきと痛んだ。

 翌日、僕はナイトウさんについて行動のほとんどを共にした。畑に出て農作業の手伝いをしたり、川まで出て水を汲んできたり。道具の修理をしたり。村人たちの依頼を、ナイトウさんは快く受ける。ナイト、ナイトと、彼らにはずいぶん慕われていた。稀に、離れた町になにか調達しに行ったりするのも、ナイトウさんの役割だそうだ。
 そして午後もだいぶ過ぎると、子どもたちを連れて丘へ行く。そうして、鳥の模型や紙飛行機を飛ばす。
「アサダも折ってみるか」
 紙飛行機なんていつ振りだろう。もう折り方なんて忘れていて、子どもたちに混じってナイトウさんに教えてもらう。折り目をつけて、開いて、線に重なるように折って、また折って。とても単純なのに、出来上がったものは何だかいびつで。
 紙を広げてもう一度つくってみるが、ひどくなるばかりだ。無理やり折り目をつけようとして、どうにも行きづまる。
「詰まったら、ゼロからスタートすればいいさ」
 差し出された新しい紙。手に取ろうとして、くしゃくしゃの紙飛行機をどうしようか考えあぐねる。
「これ、」
「捨ててしまえばいい」
 ナイトウさんの眼差しはどこまでも穏やかだ。
 僕はどうにも捨てる決心がつかず、とりあえず上着の胸ポケットにしまいこむ。
 二つめを折りながら、空を見つめたまま動かないナイトウさんが気になった。今日も広がるのは雲の無い空だ。
 いまだけじゃない。ナイトウさんは時おり、青空を見上げて何か考えているようだった。
「どうかしたんですか」
 答える代わりに、ナイトウさんは鳥の声を真似てみせる。ヒョー。ヒョーイ。ピチュピチュ、チュクチュク。他にも、もっともっと。しかしすべて空に吸い込まれ、消えていく。
 傍にいた子どもの頭をナイトウさんが撫でる。
「この子たちは戦争を知らない。戦闘機も知らない。だが、鳥も知らない。何もないこの青空しか知らないんだ」
 わずかに歪む彼の目もと。僕は苦しくなって視線を逸らす。
 戦争のあいだ、空にはじつに多くの戦闘機が飛び交った。朝も昼も夜も関係ない。見ない日などなかった。領域を侵された鳥たちは追われるように姿を消し、今もなお戻ってきてはいない。
「なあ。雲が一つも無い透き通る青空を見ると、お前はどんな気持ちになる」
 すがすがしいとか、爽やかだとか、穏やかだとか、平和だとか。そういう、プラスのイメージがすぐに浮かぶ。
 けれどナイトウさんの表情を見ると、どれも似合わない。
 この広大な空にふさわしいのは、一体どんな表現なんだろう。

 青空について考える一方で。僕がもうひとつ思考を巡らせていたのは、ゼロという言葉だった。
 僕らの軍には、ひとつのシンボルがあった。それが「ポイント・ゼロ」。ある一点を中心とした、放射状の線と同心円を組み合わせたようなデザインだった。点は祖国を表している。すなわち僕らの原点であり、中心であり、出発点であった。
 このシンボルのバッジを、兵士は皆つけていた。また、基地の入り口の床に刻まれてもいて、出撃の際にはそこを踏むと生きて再び戻れる、そう信じられてもいた。
 あの日、ナイトウさんもバッジを身につけ、ポイント・ゼロを踏んだはずだった。だから必ず帰ってくるはずだと、僕は待っていたのだ。
 迷信だったといえばそれまでになる。実際、命を落とし、帰らなかった者も数多くいた。
 けれど。
 ナイトウさんはバッジをどうしたのだろう。ここで生きていくことを決めたとき、それすら捨ててしまったんだろうか。

 数日がまたたく間に過ぎた。僕もそろそろ帰らなければならない。
 ずっとナイトウさんを傍で見ていたけれど、青空に抱く感情のことも、バッジの行方も、そもそも七年前に何があったのかも、分からずじまいで。
 ただひとつ気づいたのは、彼が鳥の模型を飛ばすのも、青空を見上げるのも、あの丘の上だけだということだ。多分そこに何かある。
 ナイトウさんはもう祖国に戻るつもりはないらしい。その意思は固く、僕がなんと言っても揺らぎそうになかった。
 だからせめて、別れる前に彼の気持ちを聞いておきたかった。

 僕が去る日の夜明け前。寝床を抜け出したナイトウさんを、僕は追いかけた。
いつも早朝には彼の姿がなく、完全に日が昇ってから帰ってくる。どこで何をしていたのか知らなかったが、思い返せばその間は模型がいくつか消えていた。だから丘にいたんだろう。
 ナイトウさんの歩みは早い。薄暗い中を慣れた足取りで進んでいく。僕は何かに足をとられたり引っかかったりしたというのに。
 やっと丘に着いたとき、僕は傷だらけだった。
「ナイトウさん」
「やっぱりお前だったか」
 ついてきたことは、とっくにばれていたらしい。僕は彼の隣に腰を下ろして、淡くなり始めた空を見つめる。
 冷えた空気がのぼせた顔に心地よい。
「ここは、ナイトウさんにとってどんな場所なんですか」
「ん?」
「きっと、大事なポイントなんでしょう」
「……ああ」
 ナイトウさんの指が、模型のゴムの部分をもてあそぶ。くるくるねじって、戻して。翼の部分がもどかしく動く。
「七年前、降りたのがここだったんだ」
 撤退の指示のあと。もちろん基地へ戻るつもりだったとナイトウさんは言う。だが機体の損傷は思った以上に激しく、自身の消耗もひどかった。無事にたどり着けないかもしれない――朦朧とした意識の中で覚悟を決めようとした、その時。
「見えたんだ、地上に。ポイント・ゼロが」
 そんなはずはない。ありえなかった。確かめようとナイトウさんは降下し、そのまま着陸した。
「辺り一面何かに弾き飛ばされたかのようだった。遠くには突き抜けるように地平線があって、それで」
 ナイトウさんが空を仰ぐ。明るくなってきたとはいえ、まだ夜だ。
それなのに、僕は青空を見た気がした。雲が一つも無い透き通る青空を。
「悲しい気持ちになった」
 悲しい。青空が、悲しい?
「何というんだろうな。圧倒的、絶対的、虚無……いや、もっと陰鬱な表現が合うのかもしれない」
 ナイトウさんが降り立ったのは、おそらく爆弾が投下された跡だったのだろう。そんな場所で見上げた美しい青空は、なんていうか。ああ。
 空を見上げたまま動けなくなっていたナイトウさんの元にやってきたのが、村の人々で。
「ひどく怯えた様子で機体とおれを拝み始めた。言葉も通じないから苦労したよ。絵を何べんも描いて、なんとかやりとりをしたんだ」
「彼らは、何と?」
「お前は神さまか、って」
 神さま。突拍子もない言葉に、しかし僕は笑えなかった。ナイトウさんの穏やかな瞳が、それを許さなかったからだ。
「戦争のことさえ知らなかった。爆弾も神の怒りだと考えていて、その場所に降りたおれを神、ナイトバードをその乗り物だと思ったらしい」
 ナイトウさんがふっと笑う。どこか自分を嘲っているように見える。
「爆弾を落としたのはおれかもしれない。違うかもしれない。だが誰だろうが、戦争がここを吹き飛ばした。鳥から空を奪った。おれたちが、やったのと同じだ」
 ぐるぐる、ぐるぐる。ナイトウさんが模型のゴムをねじる。目いっぱい、ぐるぐると。
 ふいに彼が大きく息を吐き出した。
「煮詰まってしまったら、全部かなぐり捨ててしまえばいい。ゼロからスタートする。そう決めた」
 そうして、ナイトウさんは基地へは戻らなかった。村人たちの手助けをしながら、空に鳥を呼び戻したいと考えた。本当に可能かも、どんな方法をとればいいのかも分からない。だがやると決めた。
 戦争は間もなく終結した。ナイトウさんに出来たのは、鳥の鳴き声を真似ることと、鳥の模型を飛ばすこと。紙飛行機も本当は、鳥のつもりで。もう戻ってきても大丈夫だと、そうやって鳥たちに知らせようとした。
「あの。ここは吹き飛ばされた跡だったんですよね。でも今は丘だ」
「ああ、それは」
 ナイトウさんが足元を見る。いや、目を向けているのはもっと下にあるものかもしれない。懐かしさが眼差しに滲む。
「ここはナイトバードの墓でもあるんだよ」
「ナイトバードの……」
「おれの軍服も。バッジも。何もかも一緒にここに埋めた」

 ナイトバードは死んだ。おれはもう飛ばない。二度と。

そんなナイトウさんの言葉がよみがえる。ふいに泣き出したい気持ちになって、僕はくしゃくしゃに顔を歪める。
「どんなものにも必ず終わりは来る。永遠の命なんかない。フェニックスにだって死は訪れる。でも、再び生まれるんだ。またゼロからスタートする、それを繰り返してるんだよ」
 ナイトウさんが遠くの空を見やった。地平線の付近が赤く色づきはじめている。
「なあ、ほら。ナイトバードの出番は終わりだよ、もう……アサダ」
 ナイトウさんが腕を突き出すと、鳥の模型が高く舞い上がった。続けて一羽、さらに一羽。力強く翼を動かし、夜明けの空を美しく舞う。ヒョー。ヒョーイ。鳴き真似が加わればもう、生きているとしか思えなかった。
 動力を使い果たして落下してきた鳥たちを、僕とナイトウさんは何度でも空に放った。次第に日が昇ってくる。夜がだんだん追いやられ、朝が顔をのぞかせる。

ヒョ――――。
 
ひときわ強い鳴き声がひびく。ナイトウさんを振り返ると、ひどく驚いた様子で辺りを見回していた。
「あ!」
 彼が指し示す空を見やった。夜のなごりと朝のはじまりの境界線を、白い鳥の群れが飛んでいった。
 抜けた羽がナイトウさんの手元に舞い落ちる。
「……おかえり」
 心底ほっとした様子で口にしたナイトウさんの目尻に、朝露のようなきらめきが浮かぶ。
「そうだ、皆に知らせないと!」
 嬉しそうに駆け下りていくナイトウさんの背を見送って、僕は静かに息をつく。そして足元に、足元に眠るナイトバードに、視線を落とした。
  僕はナイトバードが好きだった。限りある時間の中、限界ギリギリのスピードで、紙一重の生と死の境を力強く舞う姿に惹かれていた。きっと本当は、ナイトウさんを見つけることよりも、ナイトバードが空を翔ける姿を見たかったのだと思う。
 だが戦争は多くのものを奪い、様々なものを狂わせ、今もなお深い傷跡を残している。それが癒えていくには時間がかかるだろうし、完全には元に戻らないものだってあるだろう。再びナイトバードの出番があるようなことが、あってはならない。
 胸の前で手を合わせ、そっと目蓋を閉じる。

 ――さよならナイトバード。

 面を上げるとき、上着の胸ポケットから紙切れがのぞいているのに気がついた。くしゃくしゃになった紙飛行機だった。取り出し、出来るだけきれいに伸ばして広げる。
 
 僕はそれを、すっかり朝に変わった空に向けて思いきり放っていた。