◇「空ろ」と「虚ろ」に抱く差異

これは個人的な感覚なのですが……。

「空ろ」は文字通りからっぽのイメージ。
「虚ろ」は透明なもので満たされているような感覚を抱きます。

この“透明なもの”というのがまた、説明しがたい。
透明なもの、ではあるけれどどこか歪んで屈折しているような、明瞭な像を結べずに、薄らぼんやり微かに何か滲んでいるような、淡く儚くけれど重苦しいような……。

あと、「空ろ」はからからに乾いているけれど。
「虚ろ」はどろりとした液体のような、澱んだ空気のような、妙な質量と湿度を持っているような感じもあって。

「空ろ」はわりと単純なイメージなのに、「虚ろ」は言い表そうとすればするほど、適切な言葉が見つからなくて困ってしまいます。
辞書を引いたって「中がからで何もない」「生気がなくぼんやりしている」「むなしい」くらいの意味しか出てこないし、だいたい「空ろ/虚ろ」とセットにされてるんですよね。

ひとつめを「空ろ」、ふたつめ以降を「虚ろ」として捉えているにしても、“透明なもので満たされている”という感覚はどこからくるのでしょう。
この“満たされている”は決して“満足である”ということではなくて、からっぽを嫌ってとにかく埋めている感じがします。あるいは、中を満たすモノが不明瞭で曖昧で、無価値に思えるがゆえに生じる感覚が「虚ろ」である、というイメージなのでしょうか。

そういえば、辞書を引いたときに「中がからで何もない」という意味の場合に「洞ろ」とも書く、とありました。
これを見たとき、「中がからで何もない」ことそのものより、そのからっぽを成立させている“外側”の存在を示しているような印象を受けました。樹洞とか鍾乳洞といった言葉が浮かぶから、かもしれません。

「空虚」という言葉は、“うつろ”と読むふたつの漢字で成立している。そう再認識したことが、イメージの差異を考えるきっかけになりました。その先にもうひとつの“うつろ”が登場し、また異なる印象をもたらすのだと気付かされた。
繰り返しますが、このイメージは、あくまで個人的な感覚です。ひとが違えば、抱く印象ももちろん異なるのでしょう。「洞ろ」はやはり空いた空間のほうで、外側の存在感はさほど強くない、と言うひともいるんだと思います。「虚ろ」は精神的にからっぽな状態で、透明なものなんてない、と言うひとも。きっと。

こうした感覚の差異が誤解や齟齬を生み出すこともあるのでしょうが、それぞれに異なる感覚を持つからこそ、表現というのは豊かに存在するのかもしれない。なんてことを思ったりします。