飛ぶために生きる鳥はいるか

 年末、高校受験向けの国語の問題集をといている時に『かもめのジョナサン』という作品を知った。読解問題で一部抜粋だったので実際に読んだ部分は僅かだが、その少ない文だけでもとても惹かれてしまったが故、年末年始はずっと『飛ぶために生きる鳥はいるのか』をテーマに考えこんでしまうこととなった。

 考えはじめて直ぐに、僕は人の人らしさを感じることになる。というのも「なんのために生きるのか」というよくある答えのない問いが頭に浮かんだからだ。
 鳥が生きるために飛んだように、生き物は生きるために進化をしてきた。ヒトも生きるために脳が大きくなった、考えるようになった。
 そしていつからか生きるため以上に考えるようになる。それがいつだったのかは知らないがその時ヒトは人になったのだと思う。

 生き物は生き続けるために食事をとる。しかし生きるための食事と意識しない人も多い。生きることに余裕があるからだ。だからこそ美味しいと感じたい、娯楽のための食事も多い。美味しく食べたいという気持ちが料理という生きる以上の考えを進めたかもしれない。美味しいものを食べたいから生きるなんて人もいるかもしれない。
 生きることが目的から手段になった時、その目的がきっと生きがいと呼ばれるものなのだろう。ただ、それは生きることに余裕が生まれたからこそだ。そして生きることを意識しなくなったときが人らしい生活の始まりなのだと思う。

 鳥は生きるために飛んだ。でも彼らはいつまでも生きるために飛んでいるのだろうか。僕たちが生きる必要以上に考えたように、彼らも生きる必要以上に飛ぶ時が来るのだろうか。
 鳥は生きることに余裕を得たとき、飛ぶことを生きがいにするのだろうか。
 僕らが気付いていないだけで、彼らは既に生きるために飛んではいないかもしれない。

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