北海道の歴史年表と、13世紀以前にアイヌは存在しないのだ! というヘンテコな誤解と。
SNSなどでは、アイヌ民族のあれやこれやに対し事実誤認や偏見に基づく暴言や誹謗中傷、ヘンテコな誤解が呟かれている。実際にはその先には当事者がいて、それらの暴言や誹謗中傷によって傷つく人がいる。気軽に呟くその言葉はそのままヘイトスピーチにつながっていることも多い。
本noteはそれらの事実誤認に応えるために開設した。心当たりのある方は悪意のある言説に乗せられ、犯罪者にならないためにもお読みください。
※ここではアイヌに対して日本のマジョリティである日本民族、和人を「和民族」と統一して表記します。
アイヌ文化の成立が年表で13世紀となっていても、
「北海道の歴史年表に書いてある。13世紀以前にアイヌは存在しないのだ!」 というヘンテコな誤解と暴論が存在する。誤解はこう続く「アイヌ民族は13世紀になって北海道にやってきた侵入者なのだ!」。
もちろんこれは間違いで、アイヌ文化の成立が北海道の歴史年表上で13世紀となっていても、それ以前にアイヌ文化の担い手が存在しないというのは歴史年表の見方を知らないのか、あきらかな誤解で誤認、それをもってアイヌが突然外からやってきたという暴論も成り立たない。
しかし、まことしやかにそのような言説がSNSを中心に流布されてしまっている現状があり、本noteでは擦文時代からアイヌ文化期の文化の変容期の人と文化の連続性について考察してみたいと思います。
北海道の歴史年表について
北海道の歴史年表を見て、擦文時代に続く時代がアイヌ文化期と、民族の呼称が時代呼称になってしまったことで勘違いしてしまっている人たちがいることは、検討の余地があると考古学界でも真面目に取り上げられてもいる。(蓑島2023)
しかし、断っておくが、こういった議論があるといっても、考古学的にこの時期に断絶を予感させる資料があって議論になっているわけではない。
歴史年表にそう区分して書いてあるから、13世紀以前にアイヌは存在しないという誤解(アホな誤解だが)を産んでしまっていることを考古学、歴史学でも反省して、なんとかしないといけないと検討されているのだ。
具体的には、続縄文時代、擦文時代、アイヌ文化期の表記は時代と文化期が混在していることから、アイヌ文化期を二風谷時代と呼称するべきとの考え(瀬川拓郎)や、アイヌ文化の萌芽が現れる続縄文時代の後半期から、アイヌ文化期の「古代、中世、近世、近現在」と細分化する案(谷本晃久、蓑島栄紀、中村和之)もあり、今後この年表(↓)は変更される可能性もある。
とはいえ、アイヌ文化期の開始を北海道の年表で13世紀(西暦1200年頃)と記していたからといって、その区分の前後で文化や人がガラリと入れ替わるわけではないことは当たり前の話で、例えば一般的に日本の歴史年表で見たとしても、奈良時代の文化と人が、次の平安時代で入れ替わるわけではなく、続く鎌倉時代に区切ったとしてもそこで人が入れ替わるわけではない。
だから北海道の歴史区分を見てそのまま続縄文人は擦文人(そういった言い方も違和感があるけど)と入れ替わるわけではなく連続していて、擦文とアイヌ文化期で文化や人が入れ替わるわけではないのは自明のことで、いちいち言うことでもないのだが、アイヌ民族否定論者の頭の中では「アイヌの前に擦文人が住んでいてアイヌはいなかった」となってしまっている。この理屈がおかしいことは、うっかりものの小学生でもわかるはずです。まったくヘンテコですね。
もし仮に、年表の境目で、明確な断絶の痕跡や完全に外来の要素に塗り替えられるようなことがあれば、発掘でそういったことを裏付けるものが出るのだが、前段で触れたようにそんなことはない。いずれにせよ、歴史年表の区切れや文化期の名称は後の現代人(つまり私たち)が便宜上区切ったり名称を付けたりしただけで、その境目はグラデーションであると言うことは常に意識しておくべきだろう。
擦文時代とアイヌ文化期をつなぐミッシングリンクについて
このような言説が出てきてしまう一つの要因として、擦文時代とアイヌ文化期をつなぐ遺構や資料がほとんど見つからなかったことがあり、それを長らく「文化のミッシング・リンク」と呼んでいたことがありました。
見つからない要因はいくつかあり、一つにはそもそもあまり掘っていないという理由。また、アイヌ文化期は擦文以前のように竪穴住居を作るわけではないので遺構や遺物が残りにくい(竪穴だと後世の撹乱で削られにくい)。コタンは現代の集落のルーツになっていることも多いので近世以降の開発で削られている。新しいので頻繁に火山灰にパックされるところでないと撹乱されて消滅しやすい。などなど。
見つからないから「無い」わけではなく、事例が少ないことと、見つかりにくいことがその理由でした。
しかし、近年は関連性のある成果がいくつも出ています。何か考察するにせよ、そういった資料を考慮に入れて考えるべきでしょう。
以下に擦文期に遡るアイヌ文化の要素に繋がる資料や遺構、遡る可能性のある資料、資料の少ない13世紀前半、西暦1200年頃の資料。擦文文化期からアイヌ文化期の連続性を示す論文などを紹介します。
擦文期に遡るアイヌ文化の要素を示す資料等
●チャシ
◎上幌内モイ遺跡円形周溝遺跡(厚真町2007)
厚真川に面する河岸段丘の縁にあり、直径約9m円形に溝が巡る。その立地、形態からチャシの源流とされる。白頭山火山灰(B-Tm:A.D.946年降下)に周溝が埋められていることから10世紀の遺構と推定されている。
◎むかわ町ニサナイチャシ跡(むかわ町2015)
郭内盛土の直下で検出された焼土群から採取した木炭の14C年代測定結果が890±30 14C BP、暦年較正するとA.D.1,040~1,220年であり、チャシの構築時期は13世紀と推定されている。
◎オチャラセナイチャシ跡(厚真町2013)
チャシ内郭平地式建物跡の炭化材の14C年代測定結果が、810±30 14C BP、暦年較正するとA.D.1,170~1,275年であり、チャシの構築時期は13世紀と推定されている。
●シカ送り(アイヌ文化期のシカ送りに繋がる儀礼の可能性、かつてはアイヌもシカの霊送りを行っていたことに繋がる)(秋野2009)
◎上幌内モイ遺跡(厚真町2007)10世紀後半
●道具に加工する以外の黒曜石の利用
擦文では墓や送り場から見つかる例が多そうだが、剥片や原石まで報告される事例が少ないため、今後の検討課題。
◎上幌内モイ遺跡(厚真町2007)遺物集中から
◎斜里町須藤遺跡(斜里町1981)墓から
●伝世品
星兜、鍬形、鏡、銭など
◎上幌内2遺跡(厚真町教育委員会2017)
アイヌ墓出土秋草双鳥鏡(12・13世紀)は北海道内で伝世を示す好例の可能性
●内耳土器(擦文文化末期から主にアイヌ文化期にかけて使われた土器)
擦文後・晩期の竪穴住居跡で擦文土器に共伴して内耳土器が出土
◎白糠町和天別川河口遺跡(富水1996)
◎根室市西月ヶ岡遺跡7号住居跡床面(根室市1966)
擦文土器に類似した文様が施された内耳土器が出土
◎せたな町利別川河口遺跡(石附1976)
◎根室市トーサンポロ遺跡
●平地住居への遺構(擦文末頃に竪穴住居から平地住居へ移行か)
◎厚真町ニタップナイ遺跡(厚真町2009)10世紀後半の平地住居跡
◎厚真町オニキシベ4遺跡(厚真町2014)平地住居主体の12世紀の集落跡
◎根室市穂香遺跡(北海道文化遺産活用活性化実行委員会2020)竪穴住居からアイヌのチセにつながる変化が捉えられている(八木光則氏)。
●土器等の底部に刻まれたシロシまたはイトクパ(クは小さいク)
(アイヌ文化ではシロシと呼ばれる刻み文様によって父系のルーツがわかるようにしていた)
論文◎宇田川洋(1986)「擦文文化の刻印記号」
論文◎利部修(2010)「本州北端の刻書土器」
●イナウ/イクパスイ
◎ユカンボシC15遺跡からイナウ(北海道埋蔵文化財センター2003)
◎美々8遺跡からはイクパスイが出土。
どちらも白頭山火山灰(B-Tm:A.D.946)を挟み、10世紀中葉を主体とする層から出土(ただし一部に12〜15世紀頃までの中世の遺物を含む可能性の指摘も)。
(蓑島2023)
●陶器
論文◎吉岡康暢(1984)「北海道の中世陶磁器」
・道南を中心に珠洲系陶器Ⅳ期(14世紀)が出土。擦文より上層から出ている例も。
・上ノ国竹内屋敷遺跡(現在は上ノ国市街地遺跡(上ノ国村1961))Ⅰ層より珠洲系陶器Ⅰ期(12世紀末から13世紀初頭)が擦文土器が出土。
◎宇隆1遺跡発掘調査団(2016)『宇隆1遺跡発掘調査報告書』
・過去に常滑編年2形式(1150~1175年)の壺が表採
●銛頭
(擦文文化期からアイヌ文化期までの変遷が系統的に説明可能)
論文◎高橋健(2008)『日本列島における銛猟の考古学的研究』
●木製品
(生活に密着した木製品の使用・利用という観点から見た擦文文化期から近世アイヌ文化期は時間軸による顕著な差がなく連続性している。アイヌ文化的な諸様相は擦文時代に辿ることができる)
論文◎藤井誠二(2008)『木製品 : その分類基準と北海道における変遷の特徴』
特に上幌内モイ遺跡を含む北海道厚真町の厚真川上流域では「擦文文化」後期の遺構・遺物(12世紀頃の住居跡など)と、初期の 「アイヌ文化」とされる遺構・遺物(13世紀頃のチセ跡など)との共通性がいくつも見いだされ、両者がほとんど断絶なく連続的に確認された点が大きい。
上幌内モイ遺跡では、10世紀後半から11世紀前半の擦文文化期の段階で、後のアイヌ文化期にもみられる「神聖な方角」の存在が明らかになった。これは住居跡や儀礼の跡の配置を分析することで判明したもので、住居から見て神聖な方角にあたる場所でシカの霊を送る儀礼を行ったとみられる跡が確認された。
同町教委の乾哲也学芸員は「神聖な方角にある儀礼跡は、住居に神窓を設け、その外に祭壇を祭るアイヌの習俗の源流と思われる」と推測し、札幌国際大学の越田賢一郎・縄文世界遺産研究室長は「擦文からアイヌ文化への変遷を一地域できちんと追えるのは大きな収穫。他の地域の発掘成果とも総合することでアイヌ文化の成立の解明につながる」と評価している。
ユカンボシC15遺跡と美々8遺跡から出土したイナウとイクパスイも重要だ。どちらもアイヌの儀礼に欠かせないもので、これらが10世紀中葉を主体とする層から出土したことは、アイヌと同様の儀礼が擦文期に行われていたことの証拠となる。
また、他では土器等の底部に刻まれたイトクパの例はたくさん出ていて、擦文期とアイヌ文化期で共通でイトクパを印す文化を持っていたことがわかる。
もう一つ、伝世品については、否定論者から「擦文時代に和民族が住んでいた、侍がいたぞー」との証拠のように使われてしまっているが、考古学的には擦文から中世アイヌにかけてのどこかで手に入れたものが伝世して墓に副葬されたり祭祀場に置かれたと考えられている。だいたい侍がいたなら何かしらの文献が残されているはずだろう。
論文は少しだけあげたが、他にもある。
以下のnoteでも詳しくいくつかの論考を紹介している。
ミッシング・リンクと言われていた頃から擦文からアイヌ文化期の層位的な連続性は研究者の中では疑いは無く、この時期は文化の変容期であっても、断絶と考える研究者は僕の知る限り見当たらない。そもそもミッシング・リンクと言う言葉は、「有る」と想定していなければつけられることはない。
また、この時期に人の入れ替わりを示唆する考古学的な証拠もない。
SNSでは声高に「ミッシングリンクだ」「断絶だ」「だから13世紀前にアイヌはいなかった」と叫ぶ方達が散見されるが、こういった資料や論文を見ていけば、そんなことは言えないということは誰にでもわかる。
もちろん先般の事情で資料が豊富なわけではない。また考古学者はこういう考古資料という「断片」だけで「文化の連続性を証明」とはなかなか言わないが、充分に推測できるであろう状況証拠はかなり揃ってきている。
(文責:縄文ZINE @jomonzine)
参考:
蓑島栄紀(2023)「アイヌ史の時代区分」『北海道考古学の最前線
厚真町教育委員会編(2007)『上幌内モイ遺跡(2)』
むかわ町教育委員会編(2015)『ニサナイチャシ跡・ノットカチャシ跡発掘調査報告書』
厚真町教育委員会編(2013)『オチャラセナイチャシ跡・オチャラセナイ遺跡』
秋野茂樹(2009)『シカの霊送り儀礼一再考』
斜里町教育委員会編(1981)『須藤遺跡・内藤遺跡発掘調査報告書』
富水慶一(1996)「和天別川河口竪穴住居址群遺跡調査報告」『北海道白糠町の先史文化』白糠町教育委員会
根室市教育委員会編(1966)『北海道根室の先史遺跡』
石附喜三男(1976)「擦文文化の終末年代に関する諸問題」『江上波夫教授古希記念論集』
厚真町教育委員会編(2009)『ニタップナイ遺跡(1)』
厚真町教育委員会編(2014)『オニキシベ4遺跡』
北海道文化遺産活用活性化実行委員会(2020)地域の文化財普及啓発フォーラム 北海道の古代集落遺跡 記録集
宇田川洋(1986)「擦文文化の刻印記号」『研究紀要』12 東京大学文学部考古学研究室
利部修(2010)「本州北端の刻書土器」『北方世界の考古学』 すいれん舎
北海道埋蔵文化財センター(2003)『千歳市ユカンボシC15遺跡(6)』
蓑島栄紀(2023)「古代アイヌ文化論」『陸奥と渡島』
吉岡康暢(1984)「北海道の中世陶磁器」『北海道の研究』2 p.237-270 清文堂
上ノ国村編(1961)『上ノ国遺跡』
宇隆1遺跡発掘調査団(2016)『宇隆1遺跡発掘調査報告書』
高橋健(2008)『日本列島における銛猟の考古学的研究』
藤井誠二(2008)『木製品 : その分類基準と北海道における変遷の特徴』
(作成2024.1.24/更新2024.1.31)
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