こうして人は依存する(あるいは、依存先を分散させることについて)

友だちや仕事関係のひとたちと居酒屋で飲んでいるとき、スマホの画面を上向きにしたままテーブルに置くくせがある。ちょっと行儀は悪いけれどそんなに珍しいことでもないので、気にせずにスルーしてもらえることが多い(と思う)。

ただ、一度だけ、「シホさんってLINEの通知がくるとなんか怖い顔しますよね」と指摘されたことがあった。そのときは「気づかなかった、ごめんなさい」と謝ってスマホをしまったのだけれど、怖い顔をしているという自覚はなくても、そう言われた理由には正直心当たりがあった。

数年前まで、1日にだいたい50~100件のLINEを一方的に送ってくる恋人と交際していた。すぐに返信をしないと彼がキレてこちらが出るまで電話をかけ続けてくるので、いつでもLINEが返せるように通知がきたらスマホを注視するくせが、彼と別れてからも体に染みついていたのだ。付き合っていたころ、元恋人からのLINEは最大で1日1000件に達した。


「共依存にハマっている自分」に気づくまでの2年間

冒頭からホラー感のある話をしてしまった。このエピソードを人に話すと、決まって「どうして別れなかったの?」「なにが好きだったの?」と聞かれる。

答えは「マジで自分でも謎」って感じなのだけれど、当時は自分しかこの人と付き合えないと本気で思っていたし、彼が持っていた精神疾患を(厚かましくも)自分が支えるぞと決めていた。

結論から先に書くと、元恋人との関係は完全に“共依存”だったといまは思っている。共依存とは、「困らされたり憎んだり“うんざり”しつつもなお、その相手との密接な関係性を断ち切れないまま、延々と現状維持の不毛な人生を営んでいる状態」(※)などと定義される。

(※……春日武彦『援助者必携 はじめての精神科 第2版』より)


前述したとおり、当時の元恋人は精神疾患を抱えていた。同僚だった彼のミステリアスさに惹かれて交際がスタートしたのだけれど、彼と過ごした2年間はひと言で言って壮絶だった。

まず、深夜や早朝を含む四六時中、スマホに電話がかかってくる。ふざけているだけのことも多かったけれど、まれに「助けてくれ」「もう死にたい」という内容の日もあったので無視できなかった。

彼は精神的な調子が下向いてくると、いらだって実家の家電製品を壊したり大声を出したりした。そのたびに私は彼の親やきょうだいから連絡を受け、家族の不和の仲裁をしに実家まで出向いたり、病院のカウンセリングに同行して家族に病状を説明したりもした。

元恋人は暴力こそ振るわなかったけれど、機嫌が悪いと私にもしばしば大声をあげた。私は彼からの電話やLINEに答え続けるために10分に1回スマホを開くようになり、会社を辞めることになった。そのころにはもう、彼からいつ「助けて」と連絡がくるかわからないという不安で、ひとりで買い物をすることも映画を観ることもできなくなっていた。

目が覚めたのは、退職が決まった会社からの帰り、ワンカップを飲みながら夜道をひとりで歩いているときだった。前の晩の喧嘩がきっかけで珍しく半日鳴らなかったスマホを10分に1回確認しながら、連絡がこなければこないで、体がちぎれそうにつらいと感じている自分に気づいた。そして、「このまま適当な車が轢いてくれないかな」と思って、人気のない道のコンクリートの上に仰向けで寝転がった。

数分ほど横たわり続けて、近くを自転車が通る音ではっとした。「あっ、これはまずい、私はこの人と付き合い続けていたら死んでしまう」とそのとき初めて自覚し、半年ほどの紆余曲折や修羅場を経て、私は元恋人と別れたのだった。

……ここまでの話だけを聞くと「ヤバいやつらに起きたヤバい話」と捉えられてしまうかもしれないのだれど、恋愛に限らず、同僚や家族との一対一の関係において似たようなケースに陥ってしまう人は、実は意外と多いのではないかと思う。


「誰かひとりに依存しやすい自分」をまず自覚する

そう思うようになったきっかけは、元恋人と別れて自分の心の状態に改めて向き合い、自分自身の“依存しやすい性格”に気づいたことだった。“依存”と聞いて最初にイメージするであろうお酒はもともと毎晩欠かせなかったし、ゲームもいちど始めると平気で丸3日くらい続けて生活がボロボロになってしまう。

対人関係においても、いちど特定の人のことを好きになると、その人の存在が自分の生活の最上位にきてしまいがちだった。依存とは物事の優先順位が狂ってしまうことだとかつて本で読んだのだけれど、まさに私は、そのとき自分にとって重要なひとりの人のことをなによりも優先させたい、と思うタイプだった。

そして実は、特定の人に依存してしまいがちな性格の人はどこにでもいるのだ。恋愛に限らない、と書いたけれど、仕事でも同じケースを見たことがある。

Tくんという大学時代の友人は、子どものころから伝統工芸に関心があり、ある地方の伝統工芸品を制作している職人に弟子入りをした。師匠はTくんが作業中にミスをすることがあると制作途中の工芸品を投げて頭ごなしに叱ったが、Tくんは師匠を心から尊敬していたので、いくら人格を否定するようなことを言われても「師匠の言うとおりにできない自分が悪い、こんな自分を叱り続けてくれる師匠はなんて弟子思いなんだろう」と本気で感じ続けていたという。

そして、頭のどこかでは「これはパワハラに当たるだろう」と考えつつも、師匠のもとで学びたいからこそ、それを周囲に相談したり労基署に相談するといった選択肢はあえて選ばなかったのだそうだ。

私は自分自身の経験を公言していることもあって、仕事や恋愛、特定の相手との関係を「やめたいのにやめられない」人からの悩み相談を受けることが少なくない。これはあくまで私の体感になってしまうのだけれど、そういう人たちの多くが愛情深く(言い方を変えれば恋愛に限らず惚れっぽく)、忠誠心が強く、自責思考に陥りがちな人だった。

おもにアルコール依存症のケースで使われることが多い言葉に「イネーブラー(enabler)」というのがある。直訳すれば「(なにかを)可能にする人」という意味なのだけれど、これはたとえばアルコールに依存している夫にとっての妻や、認知症を患っている人にとっての介護者にあたる。

一見いい意味に思えるかもしれないが、なんらかの病気や症状を抱えている人をイネーブラーが熱心に支え、相手の期待にすべて応えようとすることで、相手の症状が悪化してしまうケースは少なくない(たとえば妻が毎回夫の泥酔の尻拭いをすることで、夫のアルコール依存が進んでしまう、など)。

これはまさに“共依存”が生まれる理由なのだけれど、特定の相手にあまりに熱心に尽くそうとするタイプの人は、そうやって自分から関係性の泥沼にはまっていき、抜け出せなくなってしまったりする。


自立とは、依存先を分散させること

“依存しやすさ”は性格でもあるから、「よし、今日から誰にも依存しないで自分を最優先にして生きていくぞ!」と思っても、たぶんすぐに実践するのは難しい。仕事の場でも恋愛でも、尊敬できる人や大好きだと感じる人が目の前に現れたとき、どうしてもその相手の言動が自分にとっていちばん重要だと感じてしまう人は一定数いると思う。

問題は、自分の言動や行動を左右する判断基準がその相手ひとりになってしまうことだ。その状況を解消するための方法として、“依存先を増やす”という考え方がある。

たとえば、仕事の失敗や他人からの心ない言葉がきっかけで落ち込んでいる日があるとする。普段は交際相手や配偶者に愚痴を言うことでつらさを解消しているとしたら、そのつらさを別の友人や家族、同僚に伝えるという方法をとってみるという方法が一例だ。

特定の相手だけに自分の抱えるつらさの矛先を向け続けていると、共依存に陥りやすくもなるし、仮にその相手が会話に応えてくれないときには相手への執着心も強くなってしまう。これが続くと、LINEを一方的に100件送るみたいな私が体験したケースにも近づいていく(怖かったです)。だからこそ、意図的に依存先を分散させることは自分にとっても他者にとっても有効だ。

「でも、弱みやつらさを伝えられる相手なんて普通そんなにたくさんいなくない?」と思う人もいるかもしれない。それに関して、“依存先の分散”の提唱者でもある医師の熊谷晋一郎さんがこんなことを言っている。

実は、私自身が「助けて」を言えないタイプの人間なんです。だから、自戒を込めて「自立とは依存先を増やすこと」と言っているのです。
私の場合、「助けて」と言える人はあまりいないのですが、「『助けて』って、なかなか言えないよね」と愚痴をこぼせる人はいます。その違いがけっこう大事だと感じました。
(松本俊彦『「助けて」が言えない  SOSを出さない人に支援者は何ができるか』より)

最初にこの考え方を知ったとき、そっか! と思わず膝を打ちそうになってしまった。たしかに自分も、「助けて」は本当に限られた相手にしか言えないけれど、「本当につらいとき、助けてって言えないよね~」なら5人くらいの友だちには言える気がする。

そういうちょっとした会話から頼れる相手を地道に増やしていくことが、自分自身の心の健康にもつながるし、周りの人たちに自分を頼ってもらいやすくすることにもつながっていくと思う(個人的にはSNS上に愚痴を言える裏アカを作ってしまうこともひとつの方法だと思うのだけれど、これは向き不向きがあると思うので一概にはおすすめしません)。


自分の機嫌は(できたら)自分でとる、くらいでいい

いま、「自分の機嫌は自分でとる」という考え方が主流になりつつあるのを感じている。もちろん自分の感情を自分でコントロールするという意味においてこれはまったくの正論なのだけれど、「自分の機嫌は(できれば)自分でとる」くらいの温度に留めておくのがちょうどいいんじゃないだろうか、とも個人的には思う。

もちろん、なにかにいらだったり絶望的な気分になったりしたとき、自分の不機嫌さを誰彼かまわずぶつけようとしてしまうのは論外だ。けれど、「自分だけでどうにかしないと」と思い悩んでしまうことは、自分以外のもの(お酒やパートナーなど)への依存にもつながる怖さをはらんでいる。

「つらい」「しんどい」を誰もがカジュアルに言い合える社会が理想的だと思う。けれど、そこまでの道はまだ遠いから、せめて仕事や恋愛や家族との関係に悩んだとき、「つらいってなかなか言いづらいよね」とつぶやける自分でいてほしい。

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