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システム対個人ではなく、システム対システムの問題

わたしは数字や記号をつかった抽象思考の苦手な文系なのだけど、最近思うのは、どうやらシステムが好きだなと。

社会システム、共同体運営の仕組みについて知ることが好き。

今興味があるのは、北欧の社会福祉国家のシステムと、ホモ・サピエンス共通の親でありもっともサステイナブルな文明を維持してきたといわれるブッシュマンの共同体システムと、縄文。

北欧に興味があるのは、信頼できる国政が存在すると知ることは大事だと思うから。ブッシュマンは、わたしたちサピエンス誰もの親であり人類史上もっともサステイナブルな文明を築いていたといわれるから。縄文は、この島でどういうあり方ができるのか知りたいから。そして、それらには「平等性の志向」という共通項があり、資本主義社会には、農耕時代よりも狩猟採集時代まで戻ったモデルのほうが学べることがあるのではないか、そこにヒントがあるんじゃないかって予感がある。

お金を稼ぐことは楽しい。資本主義社会って、非人間的なようでいて、人間の脳が持ってる快感を感じる何かと結びついていると思う。売り上げがどんどんあがってくことはゲーム的におもしろい。快楽物質が出る感じがする。ゲームというと、なんだか非本質的な価値の低いことのように聞こえるが、そんなことはなく、本質的に人を虜にするものだと思う。テクノロジーもそう。テクノロジーは欲望とリンクすることで発達してきて、わたしたちをそこから離れられないものにしてる。

人間の脳は、欲望をドライブさせてく性質が、集団維持のための抑制機能よりも強いのでは。宗教はひとつの抑制機能だったと思うが、今はその力は弱い。

その結果、人間の活動が自然災害を生み出していたり、生活様式が新たな病気をつくりだしていたり、身体の持ってる動物的性差が個人にとって辛いものになってたり、結果少子化してたり(多ければいいわけでもないが)、生物として不利な状況に自分たちを追い込んでいる。

そこで、北欧モデルと、ブッシュマンの狩猟採集社会の共通項としてみえてくるのは、狩猟=お金を稼ぐこと、はそれ自体で欲望を満たす行為なので、その結果としての富は強力に再分配した方がいい、ということなのかなと。

ブッシュマンの共同体では、狩猟者が成果を誇ることは嫌われて、肉が配分されるのも最後なのだとか。けれど、狩猟はそれじたいでめちゃくちゃエキサイティングで官能的なことであるらしい。

欲望と絡み合って身体性を忘れさせるほど発達してく資本主義とどう対峙するかの解として、稼ぐことを狩猟のアナロジーでとらえるところに見えてくるものがある気がしていて、それはまだ予感なんですが。

社会システムと個人の生の質は、直結してないとは思う。政治がいまいちでも個人として幸せに生きることはできるし、幸や不幸で人生を測ることも、人の人生を比べることもできない。

ただ、システムとしてみたときの良し悪しはあって、集団として強いとか、所属者の幸福度が高いとか、戦争しなくていいとか、恨みを持った人に報復される可能性が低いとか、結果所属者が生き延びられる可能性が高いとか、持続可能性が高いとか、優れたシステムとそうでないシステムはあると思うので、優れたシステムについて知りたい。

人間は集団で生きる社会的生き物だから、個人はシステムと戦わなければいけないのではなくて、戦う相手になってしまうシステムと、個人を応援してくれるシステムがあるのではないか。システムの全てが悪いわけではないし、システムなしで生きられる生き物っていないんじゃないだろうか?

わたしはシステムと、さらにはどうしてそうなるのかの原理について問うのも好きだ。

たとえば日本にある様々な志向性。手仕事の精緻さ、素材への愛情のかけ方、世界に誇れると感じる美意識や文化がある一方で、同調圧力、マネジメントやコントロールが苦手、手間への執着による本末転倒、主体性が薄い、イエが重視される等の性質もある。それらについて、「ある」こと以上に、「なんでそうなったのか」「どうしてそれが生じて保たれてるのか」が気になる。

どれもこの島の自然環境が大きく関係していることだと思う。それが自然のなかのどの部分なのか、気候なのか地形なのか植生なのか作物なのか、そこから生じた産業構造なのか、都合がよかった共助の仕組みがいつのまにかそうじゃないといけないと認識がすり替わってるのか、権力によって思い込まされてるものなのか。つい考えてしまう。

宗教もすごく好き。それもその宗教が持ってる体系や、社会全体の中での意味を、システムとして比較検討することが好きなので、それはつまり俯瞰視点だから、俯瞰せずその只中にいる、信仰心を持っている人からすると、嫌な感じがするかもしれない。

いずれにしても、システムについて書くものは「当事者」である人が読むと、気分を害するかもしれない。

でもわたしはシステムとしてみるのが好きというか、そういうふうに見えてしまう。システムが現れてくる…

システムとは、「そういうふうになっている」の連鎖。身体性のある自然そのものとしての人をありのまま活かすシステムと、脳優位で欲望をドライブさせて身体性<人の身体だけでない生態系とか生きている土台そのもの>、を忘れさせていくシステムがあるんじゃないか。

今主流なのは後者で、後者は後者で人間の人間らしさに結びついた、自然が与えた人の特性がつくるものなので、どっちが正しいのか、どちらがより本質的かという話になると、よくわからない。権力って、力って、人間にとってどうしようもなく魅力的なのかなと、思ったりもする。

力を志向する人とそうでない人が戦ったら、力を志向する方が強い。力を志向する人がつくるシステムは、力を志向しない人を取り込んでしまう。力にはそういう性質がある。それも原理的な話で、そういうふうになっている。

長い目で見たときには、そのシステムは土台を軽視してるのだから、滅びに向かうもので、つまりこのままいったら人類は滅びそうで、滅びるかどうかは、滅びる前にまた違うシステムが出現してそっちが主流になるのか、もしくは人類の進化形に道を譲るのか、超俯瞰で見るとそういう感じがするのだけど。

ただわたしは、自然を生かした美しいシステムの中で生きること、その可能性について知りたいので、そういうシステムについて知りたい。

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