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21|在るものからはじまる

家の設計が進んできた。図面を書いてくれているのは夫の研究室のK君。

私は施主、夫は施主であり建築事務所、K君はその事務所の担当所員、というイメージの立ち位置で、3人での打ち合わせと、夫からの指導とを踏まえながら、K君からの提案もあって、強く誰が主導、というのではなく、話し合いながら、良い具合にまとまっていっている。

3月20日の初回提案から、打ち合わせ6回くらいで4月15日に基本設計が終了。間取りを主とする全体の枠組みが決まった。

これから、構造設計のできる人に耐震構造など確認してもらいつつ、さらに細かい寸法や素材の検討に入っていく。

全体としては同じ方向をみているが、私は実用性や素材の心地良さ、夫は美観や新規性によりがちなところ、Kくんはその中間にいて傍目八目を発揮、なかなか冷静な意見を挟んでくるのがいい。

夫の研究室にはがっつり設計をやる人自体珍しいのが、たまたま今年はK君がいた。偶然だけど、縁てそういうものかもしれなくて、ありがたい。



先日は担当してもらう大工の江嵜さんと、現場で初めての打ち合わせをした。

江嵜さんは、同世代でリノベ専門、断熱気密工事も得意、大工や左官や設備の技術者を集めた建築集団「GO」を主宰していて、工務店業務も請け負えるという、我らのチームにはこういう人が必要だったと、出会ってわかった、みたいな人だった。

リノベーションで断熱気密工事をすることは、受けてもらえないこともあるらしい。すでに在る建物の一部をつくりかえるのは、規格化された素材を組み立てるより手間がかかるし、新築ほど金額が積み上がらないから、手間のわりにビジネス的旨味は薄い、ひとことでいうと面倒な仕事であり、さらに断熱気密となると、やり方がわからない工務店や大工さんも多いとか。

新築でも、小規模事業者の現場が追いついていないからと、断熱気密を前提にした住宅の2020年省エネ基準の義務化が見送られたというから、リノベとなれば、わかっていてできる人って少ないのだろう。

それが、江嵜さんは「リノベをやりたい」大工である。できるだけゴミを出したくない。空き家をどうにかしたい。そういう想いが背景にあるという。

しかも『エコハウスの教科書』などの著者の建築家、みかんぐみの竹内さん設計の家と、竹内さんの先生に当たる西方里見さん率いる西方設計の家の施工経験まであるそう。こんな心強いことがありますか。

さらに、左官や電気設備や水回り設備といったそれぞれの職人さんをまとめて、段取りを組む、工務店機能もお願いできる。建築は物理的要素の積み上げだから、段取りを間違えると、せっかくやったものを壊さないといけなくなったり、大変なロスが生じる。大工さんに段取りもお願いできるって、すばらしい。

私たちは自分たちでも手を動かしたい、そうすることによって学びながら施工費もダウンしたいと思っているが、これも大工さんによっては、素人が入ってくんじゃねえと、嫌がる人もいるだろう。嫌がる人の方が多いかもしれない。そこも江嵜さんは「おもしろいっすね!」と、ノッてくれた。

たいへんありがたい。出会いとしかいいようがない。


世代といえば、世代だとも思う。

ものが溢れてる中で育って、いよいよ空き家が溢れていて、ゴミも溢れているんだから、つくらなくて済むなら、つくらなくていい。在るものをつかうところに、新品とは違うオリジナリティが出てくるのがおもしろいし、コストもさがって、いいことだらけやね、という。

すでに在るものをどう利用するかのところに、想像力が膨らむ。これはこれで、人の本能じゃないかと思う。動物的な本能ではなくて、人を人たらしめている、要素のひとつ。

家に限らない、冷蔵庫のありもので料理をするとか、大量の食材をどう保存食にしようとか、服をつくろって元とは違うものにするとか、そういうときに発動する想像力。名前のつかない能力だけど、発動させて生きることが、日々の楽しさとか、生活の質に直結するような力。

在るものからはじまること。これが今回の家づくりの中心にあるものだって、間取りが決まって改めて思う。制約がたくさんあるけど、おもしろい。


私たちは誰でも、創意工夫がしたい。学びながら工夫して、自分のやり方を更新していくことは、生きる歓びだと思う。

何も生み出すな。工夫をするな。新しい方法を考えるな。そんな強制力が働いたら、暮らしはまったく生彩を欠いて、生きる意味の多くが失われる。

在るものからはじめることは、新しさを否定することじゃない。新しさを生み出すことを目的としなくても、私たちは自分の働きを通じて、なにかを打ち出したい。それは何らかの新規性を伴うだろう。

新しいものはもう生まれない、出尽くした、これからは編集しかないと、実感するより前に、そういう言説を吸収してきた。どうやら私が暮らす社会とは、何かが終わって死んだあとの退屈な、終わらない日常らしかった。それらの言説には、多くの場合、何らかの落胆が含まれていた。

でも、世相的には停滞しか知らないからか、私にはその落胆がないのよね。

人が物理法則を変えられるわけでなし、人ができるのはどこまでいっても編集の範囲でしかない、どこまでいっても宇宙の掌の上でしかなくて、全く新しいものをつくれる、というのは傲慢な思い上がりで、視野が狭いんじゃないかな。

それでいて、編集しかないことは、全然、落胆することではなくて、編集からある種の豊かさを生み出せることが、人の大切な能力なんじゃないかな。

発展が生み出される基盤の枠組みが、変わってきていると思う。ブリコラージュの世界に戻っていく。それは、人間が意志で漕ぎつけたことではなく、自然からの要請で、必要だって、向かわされている。

そこに退屈はない。大きなもの、人間以外のものとの繋がりをどうやったら取り戻せるのか、学びと思考と実践を繰り返していくことは、ものすごくエキサイティングで、満たされ続ける、至高の愉楽である。


私たちの家づくりは、形も性能も、すでに在るものに引っ張られる。そこから、どこまでできるかの実験。

江嵜さんが入っての打ち合わせは、今あるものと希望の仕様の落とし所がどこにあるのか、予算も含めての、具体的な制約の中での選択という気配が濃くなった。

これまで3人で均衡してたバランスが、より工法に詳しい人が増えて、4人になって、いよいよおもしろくなってきた。

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ライター|重文指定絹織織物「結城紬」産地で働いた経験を元に工藝や地場産業のライティングを行う|『ぼくたちはケアして表現するサル?』書籍化奮闘中|神奈川出身、茨城、札幌を経て富山在住|www.chieyabutani.com