工芸は肯定につながるもの

工芸関係の文章や作家の言葉には、「自己表現ではなく」という表現が頻出する。「自己表現ではなく、自然が身体を経て現れてくる」「工芸の本質は、つくり手が自らを消していくことにある」「わたしが色をつくるのではなく、わたしを通じて、色が生まれる」「機械のように動くことで、そこに自然が現れてくる」…

私自身、20代を伝統工芸の産地で働いたのは、自然の美しさを凝縮させて引き出す人の手の力を知りたいと思ったからだった。そこには、倫理と関係するものがあるとも思っていた。産地で働いた九年間は、思索を深めることよりも直観的に人がその美しさを感じられる場づくりに終始した時間で、でもその力を感じるのは私だけではないと、求めてくださるお客様たちの姿に実感したから、言語化は深まっていないが、予感がその次の、確かにあるものへと進んだとは思う。

わたしはどちらかというと「媒体」タイプで、知りたい、観察したい、学びたい、深めたい、うつしとりたい、描きたい、とは思うのだが、運動や実事業をぐいぐい牽引するほうではない。そういう人が必要だけどいないからやるか、となったり、ゆるゆるした範囲で何か主催することはあるのだけど、いずれもモチベーションは「知りたい」「観察したい」で、実業を成し遂げたり社会を変革する人とは何か角度が違って、それを申し訳なく思うこともあるのだけど、そういう人がいてもいいだろうとも思う。

仕事の成果よりも、マーマレードジャムの橙色がめちゃくちゃきれいだなあってほうが心に強くあるんだよなあって思った日があった。社会的に評価されそうな出来事は他にたくさんあったのに、ジャムのきれいさのほうに引っ張られてる、こういうわたしは事業向きではないんだろうなあと思ったことをよく覚えている。それでいながらお店を運営していたのは、必要だからっていう、外的な要因からだった。だから立ち上げられたし、運営もできたけど、今やってないんだろうなあと思う。

今でも、結城紬のことは大好きで、ほんとうにきれいなものだと思う。それが家にある。着ることができる。嬉しい。箪笥を開けて布の質感をみて、このものが家にあるって、ほんとうに嬉しいと思った。やっぱり大好きだと思う。ただ、所有していなくても、世界のどこかにそのものがあれば、それでいいとも思う。絶えたとしても、絶えないとも思う。この感覚はとても個人的なもので、現実からは浮遊している。

何かがおかしい、便利になるほど忙しくなる、便利だから使いはじめたはずのお金に心が囚われて苦しくなってる、生きるためのはずのシステムが複雑すぎてシステムに奉仕しないといけなくなってるなど、資本主義が人の生と根本的な矛盾を社会につくってるとは思うのだが、かといってどうすればいいって、心の持ちよう以上のことが思いつかない。生活を満喫することによる抵抗、というのはあると思っていて、だから抵抗しているように、運動しているように見えないかもしれないけど、してるってことなんだけど。

初めの話に戻ると、工芸が持つ美しさ、工芸が存在する意味が、そうして生まれていることは、間違いないと思う。一方で、「自己表現」としての表現がどういうものなのか、好みじゃないからスルーしてきているのか、いまいちわからない。

なんとなく浮かぶのは、子どもがつけたり消したりするNHKで折々にきく、みんなのうたの一部の傾向。

「あなたはいつか冷たい日々を泳ぐ、つまらない暮らしと嘆くことも美しい」「誰もがひとりぼっち、愛されたいと言えずにいる」みたいな、都市生活者の孤独と自我の葛藤が描かれたような歌がひとつではない。それらが自己表現の歌かというと、そうじゃなくて、社会の表現だと思う。社会にある今のメンタリティを捉えている歌。

みんなのうたの外側までみれば、そういう歌は溢れているわけだが、主に子どもが対象とされているだろう「みんなのうた」にまでそのメンタリティが侵食してきていることが息苦しい。

それで、「役に立つからいい」わけではないけど、工芸はそこから自由にさせてくれる力を持っていることを思う。

「自分をなくす」というのは何もなくなってしまうのではなく、おそらく大きなものと一体化する感覚だ。そこから生まれるものには、冷たくもつまらなくもない美しさがある。つまり上に書いた歌詞とは真逆。わたしの解釈は曲解かもしれないが、ペラペラさを嘆くことも美しいって、だいぶ理屈でこねくりまわしてるというか、もっとストレートに心が動く在り方、嘆かないでいられる在り方を求めてもいいんじゃないのかって思うのはおばあちゃんみたいかな。

はじめに書いた言葉はつくり手の側の言葉で、使い手がそれらの言葉に心底共感するものではないかもしれない。使い手としての工芸をめぐる言葉は、つくり手や選び手ほど系統立てられてアクセスしやすい形では、のこってない(でも文学やエッセイや民俗学や人類学の中にはたくさんあるのかも)。それはおそらく、生活の中で工芸を普通に使うことに言葉は必要ないことと、これまでは使い手=主婦=女で、女は思想も批評もせず、それが「できない」んじゃなくてピンとこない、思想も批評も生活からは遠くて必要ないからで、でも料理をして器を使って、洗って、目と手と口の感触とで日々そのものに触れることには、言語化されてる総量とは別の、生きられてきた時間の総量として、思想や批評に遜色ない(むしろもっと豊かかもしれない)ものがあったはずだし、これからは男女どちらと限らず、生活者の使い手としての実感が、つくり手の実感とはまた別の豊かさで、存在していくものだと思う。

子どもが歌番組が好きなので、昨日は「うたコン」をみた。NMB48の歌詞に、秋元康って苦手だなと思う。好きな人の前だと素直になれない、ただただ、たわいない、ペルソナを煮詰めたマーケティングの権化のような歌詞の、生々しさまで人工的に付加されてる、どこまで剥がしてもつくりものみたいな人格像が怖い。一方では平手友梨奈が負ってる孤独と自我の葛藤みたいのも、息苦しさの度合いが強くて出口がなくて、出口のなさ具合に揺らぎがなくて、人工的だって思う。おそらくその人工的度合いと、演じて歌う生身の少女がシンクロしたりはみ出したり葛藤してそうだったりする人間味のズレが魅力になるところまで計算されてると思うのだが、人間味まで消費されるような感覚がこわい。

その点、プロデューサーということでいえば、つんくはいい。生々しさがある。こういうかんじでしょ?じゃない、本人の身体性が歌詞にみえる。子ども向け番組の歌もつくっていたりして、『のりものステーション』にはミニモニじゃんけんぽい的な旋律に懐かしくなったりもするのだが、基本的に、根底に「肯定」があるのを感じる。だから子ども向けの歌がつくれる。『小さな手』、とても良い歌だと思います。

なんだろうな、言語の外、人間の外からくるものをとらえて形にしている良さが、工芸に近いものがあるというとそれ言ったらけっこういろんなことに言えて逆につまらないのだが、『小さな手』には人の外側からくるものを捉えている感覚があって、それは子どもによってもたらされたものなんだろうと、いいなあと思う。

人間の外側からくるものをとらえようとするところには、肯定がある。というか、人は人の意志で存在を始めたわけじゃないのだから、肯定も否定もできるものではないのだが、なぜか「そういうふうになっている」ことが受け入れられると、肯定的な気持ちが出てくる。開き直ると軽くなれる、にも近い。だから外側からくるものをとらえようとすると、都市生活者の孤独と自我の葛藤と真逆のところにいく、軽くなる回路が開ける。


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