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「区切りの感覚」

昨日、「仕事納めと区切りの感覚」という記事を書いた。
長年医療や介護の現場にいると、これは曖昧になりがちで、だからこそ、
大切にしたいと思うのかもしれないな、と過去を振り返って見る。


私が新人看護師のとき。
4月から看護師寮に住んで、一人部屋で初めて迎える大晦日だった。
年明けてからも仕事があるので、実家には帰省しなかった。

実家は、いつも大晦日に”紅白歌合戦”を見て、年越し蕎麦を食べ、”ゆく年くる年”が始まる頃に、家を出て、お正月だけ深夜も動いている電車に乗って、近くの信貴山に向かう。そして、初詣。 ロープウェイに乗りバスに乗り到着したら、真夜中にもかかわらずすごい人出だった。
帰りに作りたての草餅を買って帰る。

ひたすら歩く大晦日の足元の頼り無い暗い光景は、今でも時々思い出す。
幼心になんで毎年、寅なんだろう、と思っていた。
(それについては、先のリンク先へ。)

信貴山朝護孫子寺の大寅

そして、帰ってから、お屠蘇をいただいて、お年玉タイム。みんなでおせちを食べて新年のご挨拶。

本当に正しいお正月という感じだった。

年末は母と一緒におせちを仕込むのが習わしだった。


さて、初めての一人の大晦日。
私は、そんなに母とは仲良しではなかった。どちらかといえば、苦手だった。
そんな母だが、なぜか、勘は鋭かった。
ふと、深夜の寮の公衆電話から、自宅に電話した。
起きていることがわかっていたからだ。
ナンバーディスプレイなどが無い時代だ。なのに、繋がった途端、
「ちえこだね、かかってくると思ってた」。

そんな初めてのお正月を過ごした後、私は看護師としての人生にどっぷり浸かっていく。2年目には寮を出て、一人暮らしの家も、年末の大掃除しなくちゃとか、お正月らしいことしなくちゃとか、なんだか一人でバタバタしていた。

が、現実は、冬に忙しい、脳神経外科領域では、3交替勤務ではヘトヘトだ。
ふと
「月が変わるだけなのに、何をバタバタしてるんだろう」と思った。

そうして、年末年始に何か特別なことをしなくなった。(付き合っていた彼と初詣とかはあったけど、仲良しの同僚とは休みが一緒に取れないのが看護師の現実)

ある冬の日。
電車に乗っていると晴れ着をきた可愛い同世代の女の子が電車に乗ってきた。
なんとなく言葉の表現は難しいが、「きちんとしている」と思ったのだ。

仕事はきちんとしている。
それなりに信頼はえた。

でも、何かが足りていない気がした。

このかんじ、わかるだろうか。

その年は、花見を堪能し、花火を堪能し、年明けは初詣に行くことにした。

きちんとしている。ちゃんと社会人している。

それだけでは、何かがすり減っていくことを、あの電車の中で出会った女性の晴れ着は思い出させてくれた。

そうだった。母は着物の着付師だった。

その後、数年経って、私は茶道を習い、着物を着る機会の頻度が増した。
社中のお弟子さんたちは、季節感を大切にしつつ、自身の人生も大切にしている。

そういう目に見えない何か、に、人は支えられていると感じた、経験だった。

先にも述べたように、医療職で特に病院に勤めているものは、季節ごとになぜか疎くなりがちだ。
できないことに対する罪悪感を持つことは必要ないけれど、
何か足りない、と思えるセンサーは、これからも大事にしていきたいなあ、と思う。

対象者は、やはり、人だし、その「何か足りないな」と思うものを持ち合わせている同類なのだから。

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