「ふりかえる」動作が示すもの 智恵のバイブルトーク
今日は久しぶりに母教会の礼拝で奏楽の奉仕をさせていただきました。
幼い時の信仰心にかえり、ホームグラウンドにかえり
なんだか懐かしさに癒された日でした。
ふり返る。
ふり帰る。
この「ふりかえる」というワードについて、
最近友人と話していました。
「過去をふりかえらず、今ココが大切なのだ」
と説かれる方もいます。メディアも、「今ココ!」
を推奨するビジュアル広告は多いです。
今を生きることが大切なのはもちろんです。
では、私たちは何故、「ふりかえり」をするのでしょう。
昨今では、ふりかえりから得た知見をフィードバックと呼んだりもしますが、単に動作の改善や先人の想いを探る歴史のお勉強というとらえ方に留まりません。
今日は少し違った角度から、この「ふりかえる」動作について考えてみたいと思います。
聖書では、迷子の子羊と羊飼いの例え話が登場します。
羊飼いはまことの神さまを示し、子羊は私たちを示します。ある日、羊飼いは100匹の羊の群れを緑の牧場に連れて行きます。
道道、羊飼いが辺りを見回すと1匹の子羊が見当たりません。
羊飼いは99匹の羊の安全を確保し、
命がけで1匹の子羊を探すのです。
そしてようやく見つけた子羊を胸に抱き、
「愛する私の子よ。」と泣いて喜びます。
ここまでのストーリーの中で
ふりかえりの動作が記されています。
〝辺りを見回す。〟
この動作の中で、羊飼いは何度もふり返っているのです。
このことから、ふりかえりは自分のためだけに
行うのではなく、自分の大切な人たちのために
行う動作であることが分かります。
私たちは生きていると、
目の前にある輝かしいものや、
真新しいものに触れたくて
前身します。
時には陸上選手のように
ゴールに向かって前身し、
駆けていく時もあるでしょう。
しかし、ふりかえる動作を忘れては
バトンを仲間に繋げることはできません。
私たちの人生でも、ふりかえることを
忘れ、大切な人を置き去りにしては
神さまの御心とは言えず、
それは私たちの肉の想いで
とどまっていることになります。
聖書は「明日の計画を立てすぎないで」とも言っています。
〝だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。〟(マタイ6:34)
いっさいの心配を神様に預けるのは、
キリスト者の信仰で、それは勤勉なこの国では、
怠惰にうつることがあるかもしれません。
しかし、イスラエルの民は滝にダイブするかのような信仰で、試練の中に恵みを注がれました。
このように、聖書には日常の動作の裏にかくされた
心理とともに、心に平安を取り戻すヒントがたくさん
記されています。
米光智恵
〈筆者公式サイト〉
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