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幕末と香港

先日、跑馬地香港墳場の外国人墓地で眠る
カール・ギュツラフ氏のお墓参りに行きました。
幕末の異国船打払令で、江戸幕府から追い払われた
モリソン号にギュツラフ氏は乗船。
モリソン号は浦賀沖で追い払われた後、マカオに戻りました。


跑馬地香港墳場


跑馬地香港墳場、外国人墓地
カール・ギュツラフ氏の墓石


↓カール・ギュツラフ氏の墓石の詳細

カール・ギュツラフ氏(1803-1851年)は、
中国で活躍したドイツ人宣教師。
日本ではとくに、聖書を日本語に翻訳した人物として知られ。
ギュツラフの訳は現存する最古の日本語訳聖書、
「ヨハネによる福音書」及び「ヨハネの手紙」が翻訳されました。

3人の漂流民の数奇な運命は、三浦綾子氏の「海嶺」で詳しく描かれております。

江戸時代末期、1832年(天保3年)10月、
米や陶器を積んで鳥羽から江戸に向けて出港するも、
途中遠州灘で暴風に遭い難破、漂流。
14ヶ月の間、太平洋を彷徨った末、
ようやく米国西海岸北部に漂着し残ったのは
14人中、僅か3人。
原住民に救助されるも、拾った物→私物扱いの奴隷の扱いを受ける中、
奇跡的に彼らの存在を知る英国企業・ハドソン湾会社に引き取られた後、
米国→ハワイ→英国→マカオと世界を一周して、日本に向かい、
ギュツラフ氏たちが乗るモリソン号に乗船
当時1837年(天保8年)の江戸幕府幕末の異国船打払令で
浦賀沖で追い払われた後はマカオに戻りました。
歴史の教科書に出てくるモリソン号事件です。

因みにモリソン号事件直後の
1840年(天保11年)のアヘン戦争勃発、
1842年(天保13年)の南京条約締結後、
香港が英国に割譲されました。
大国清朝の敗戦の結果は江戸幕府にも伝えられ、
異国船打払令から方針を転換、
1842年(天保13年)に緩和策の薪水給与令を実施、
開国へ歩むことになります。


Gutzlaff Street
Gutzlaff Street

香港島中環から上環寄り、SOHOにギュツラフ氏の名前の
Gutzlaff Street  (吉士笠街)があります。
短い通りなので、見つけるのが少し難しいですが…。
ギュツラフ氏は宣教師、医者、探検家、翻訳家として活躍、
語学は中国語の他、福建語、広東語、潮州語、客家語に精通し、
アラビア語、トルコ語、マレー語を理解、
南京条約の中国語訳を担当しました。


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