見出し画像

すべてが一部になる瞬間まで

養老孟司さんの講演の感想、今回で最後になります。

改めて、本質に触れ、魂が共鳴する時間だったなぁと思います。



さて。


人は、いつから「死」を恐れるようになったのだろう。

本来生き物は全て、死に向かって生きている。
死は、全ての生き物に平等に与えられるもの。

その「死」を、自分から切り離してしまったために、それが何者かわからず、怖い存在になってしまったのだろう。


死ぬことが、生命の一部だと捉えられれば、世界の見方はもう少し変わるのではないかと、思う。


「環境」に関しても然り。

環境とは、「自分を取り巻く物事」。自分がいなければ、環境はないため、本来切っても切れない。


現代社会は、環境が見えなくなっている。

キッチンで油を流したら、その後どこを通ってどこにいくのか。
食べている野菜が、どこでどうやって育って、どうやってここまできたのか。
家を一軒建てるのに、その材料がどこからどのように集められ、どうやって家が出来上がるのか。

自分を取り巻く環境が、見えないから、切り離していることにも気づかない。


わたし自身もそう。

最近になって、ようやく、少しずつ意識が変わってきたところ。


そう。
本来「自分」とは、もっと大きく広いものだった。

自分の一部であるものが、あちこち切り離し、切り離されて、「自分」は小さくなってしまった。

本来、自分は自然の一部であり、自然は自分の一部だった。

そして、今も。


インターネットの普及等で、人が見る世界は、とても広くなった。ように感じられる。

果たしてそうなのか。

地球の裏側のことも、瞬時に情報として知ることができる。人と知り合うこともできる。

果たして世界は広くなったのだろうか。



昨年夏、はじめてベランダ栽培をして青じそを育てた。
はじめての青じそは、土の味がした。
ベランダの青じそは、わたしの一部となった。


今年は、はじめて手前味噌を仕込んだ。
キッチンにある手前味噌は、わたしの一部となった。

そして、半年後には、わたしの一部である味噌汁が出来上がるのだ。


こんなふうに、自分を広げる方法があることを、わたしは初めて知ったのだ。


さて。

方法はわかった。
では、やはりそろそろ、自分を広げていこうではないか、わたしよ。


そうしたら、この先、1年後か、10年後か、30年後か。
およそ来るであろう災害の時に、わたしは、少しは役に立つ人間になっているように思う。

急に狭くなってしまうであろう世界の中で、しっかりと大地に立っていられる気がするのだ。


与えられた生命、人間として、一部として、全体として、生かされていこうと。今日、改めて思うのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?