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“あえて面倒くさいことをする”。これが思考力や想像力を鍛える基本

こんにちは、さないです。

私は現在週2日くらいの頻度で着物を着ていますが、その都度私の頭の中をかすめる言葉が"面倒くさい"

着物って洋服に比べるとやっぱり面倒なんです。

・着るのが面倒
・たたむのが面倒
・お手入れが面倒

それでもそれ以上にコーディネートが楽しくて着続けているんですが、続けていくうちに気づかされることがあるんです。

それは着物を着ることによって、「思考力」や「想像力」が養われているということ。

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「どうやったらもっとキレイに着れるかな」
「もっと着やすくするにはどうしたらいいかな」

など、面倒くさいデフォルトのやり方に対して自分なりに創意工夫を凝らしてみようとするんです。

私の周りの着物好きの方にもそういう方は多いです。

着付けの教本には書かれていない、自らが着ることによって得た生きた知識。

そういう実践をもとにした裏技的な知識って、すごく大切だと思います。

現代はとても便利な世の中。

着物なんか着なくても、Tシャツ&Gパンでものの10秒で身なりを整えて出かけることもできます。

何かわからないことがあったときも、自分で考えずともパソコンやネットで効率的に最良の答えを導き出せます。

けれども、それは確かに一般的には最良の答えかもしれないけれど、時として自分にとって最良の答えではないことがあるかもしれません。


少し話が脱線しますが、「人間は考える葦である」というパスカルの有名な言葉があります。

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人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎないけれども、考えることによって偉大な存在としてあり続けることができるという意味です。

確かに、生まれてすぐに草原を駆け回ることができる仔馬や、産み落とされてすぐに海の中を泳ぐ子クジラと比較すると、人間の赤ちゃんはものすごく脆弱です。

けれども、成長するにつれて学び考えることで人間は智を武器に文明を興し、今のような社会を築くことができました。

けれども、人間が考えることをやめたらどうなるのでしょうか?

昨今SNS上に心無い書き込みがあふれたり、デマが流れたりするのも、人間が便利な社会にあぐらをかいて考えることをやめ、判断力が低下している一つの兆しなのかもしれません。

さらに追い打ちをかけるように、人工知能の発達によって2045年にはシンギュラリティが訪れるともいわれています。

そんな未来を見据えて、人間は今どうあるべきなのでしょう?

着物の話からだいぶ飛躍してしまいましたが、着物に限らず、あえて面倒なことや手間がかかること行うことは、とても些細なことでありながらも、人間に欠かせない思考力や想像力を鍛える一つの手段だと私は思っています。

便利な社会を目指す一方で、あえて意識的に面倒くさいことに励むこと。

これが今の私たちが失いつつあるピースを埋めるための、ひとつの糸口になるのかもしれません。