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言葉はツールでしかないのか

大学院とは一旦離れて、本業の通訳・翻訳に関するテーマなどひとつ。

外国語教育の周辺で、言葉はツールでしかない、という話を聞いたり、読んだりすることがあります。
これにはかねてから引っかかっていたので、ちょっと真面目に考えてみました。

「英語はツールでしかない」  
よく耳にするフレーズですね。

どこが気になるのか探ってみると、「でしか」の部分だと思います。

言葉は確かにコミュニケーションにおけるツールです。
大切な道具のひとつではあります。
ただし、「ツールでしかない」という文の「でしか」からは、その道具を大切にしていない感を受け取るのです。

言葉が好きなのだなあと気づき始めた高校生の頃に聞いた友人の言葉で、まだ心に残っているものがあります。

「人は言葉で考えるんだから、言葉は大切にしないといけないんだよ。」

その友人は、そう親御さんから言い聞かされていると言っていました。

そうだよなあ、人は言葉で考えるんだ、と昔も今も思います。

そして、考えを他の人に伝えるのも言葉。
夢を語るのも、愛をささやくのも言葉。

程度の差はあれど、母国語も、外国語も、自分の言葉で考え、それを伝えるという大切な役割を持っています。

その道具を「でしかない」で切ってしまうのは悲しい。

なんだろう、工具を大事にしない職人さん、みたいな残念さを感じるのです。

道具へのこだわりや使い方は人それぞれだとは思います。 

ただ「でしかない」のという言葉を聞くたびに、どうしてそう思うのかなあ、もったいないなあと思わざるを得ないのです。

少なからずの人が「好きだから」ではなく「教科だから」「必要だから」言葉を勉強しているでしょう。

だからこそ、その道具を慈しむ。
言葉があるから可能になることに、想いを巡らせる。

そんなアプローチで外国語学習に取り組んだら、なにか変化が生まれたり…

したらいいと思いませんか?

(写真は、越冬した南から北に戻るツルの群れです。ドイツでは春の訪れを感じさせる光景。今年は2月中旬にもう始まりました。温暖化…)

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