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粘土からガラスの鉢そしてパソコン画面の人魚まで~イメージワークによる内面の変化のストーリー

先日の記事、落ちこみをあるがままに認めて心を解放していくには、の時点から、”書く”ことへの意識がかわっていった。

その、わたしの内側で展開するプロセスがおもしろかったので、記録もかねて書いてみる。

“書く”ことに対して、はじめに感じていたのは、重苦しさ、胸の黒い塊。

これをていねいに感じていたら、
「ああ、これは型を押しつけられることへの苦しさ、抵抗感なんだな」と自然にわかってきた。

これはかつて、子供時代に体験したことから、自分が身につけてしまったクセなんだよね。もともとは親やまわりの大人がわたしにしていたことを、自分自身が自分に対してするようになる。

つまり、わたし自身が、自分の本来の在り方やペースをムシして、「こうしなければ!」と自分を型にはめようとしたり、追い立てたり、しがちなクセを持っているということ。

それが腑に落ちて、またていねいに身体の感覚を感じていたら、イメージは変化しはじめた。

はじめにわたしが”書く”ことに対して感じていたイメージは、重たい黒い塊だった。

それが伝えたかったメッセージは「わたしは型を押しつけられたり、追い立てられたりしたくないんだ」という苦しさと、その苦しさから解放されたい望みだった。

自分の内側にあらわれた感覚ってね、それが本当に伝えたいメッセージを本体である自分が受けとってくれるまでは、なかなか変わらない。

この黒い塊は、わたしがあるがままにそのイメージを認め、親身にみて、そのメッセージが腑に落ちたので姿をかえた。

何に姿をかえたのか。
粘土だ。すこし固めの粘土。

それは、はじめは程よい固さで少しひんやりとしているのが心地よく、内側のわたしは「さあて何をつくろうかな」という静かなやる気をもっているようだった。

でも、みるみる内に、手で練っている粘土はやわらかく溶けていく。内側のわたしの手が熱いのだ。手の熱でやわらかくなる。

その熱さに、本体のわたしは気づき、「ああ、わたしの手は熱いという感じがあるんだね」と認めた。

その後、ふいに粘土は消えて、わたしは真っ赤に燃える火のなかに長い棒をさしこみ筒状のその棒から息を吹きかけ、溶かしたガラスを形にしようとしていた。

ガラスは材料の砂の姿をまったくとどめておらず、飴細工のように透明でやわらかく、吹きこむ空気で形をかえていった。

さらに、そのガラスは、大きな鉢になった。透明な金魚鉢のよう。

その鉢の中には、色とりどりの魚たちが泳いでいる。金魚ではなく珍しい熱帯魚がたくさん。

そのイメージを見ながらわたしは、ああこのガラスの鉢はパソコンの画面なんだ、とふと思った。パソコンをつかって文章を書くときに見えている画面。

わたしがパソコンの画面に向き合い、キーボードをたたきながら書きたいものは、こんな色とりどりの珍しい魚のような何かなんだな、とわかってきた。

その後、このパソコン画面には人魚が映ることもあるんだ、とふと思った。

そうすると、真っ黒い画面の中にふわりと浮かぶ、赤い髪をした人魚がイメージにあらわれた。背景の画面が真っ黒なのは深海にいるからだろうか。

イラストっぽいテイストなのでかわいい。ディズニーのリトルマーメイドのようにも見える。。あ、そうか。こう書いてきてわかった。

わたしが持っているオラクルカードのお気に入りの絵の人魚だ。赤い髪をしている。

人魚のイメージは以前のイメージワークにも出ていたんだ。なんとなくつながりがある気がする。

オラクルカードも見ながら、また後日、イメージワークをしてみよう。その記事はまた別に書きます。長くなりそうだから。(→書きました。こちら

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黒い塊からはじまった、わたしの内面の変容のプロセスは、人魚のイメージまできて、ひとまず、ひと区切りついた。(ここでひと区切りだな、というのも、身体の感覚が教えてくれます。)

それで、しばらくこのイメージをつらつらと感じていたら、いろんなことが分かってきたので、解説みたいにそれを書いてみる。

感じるワークのときには、分析したり意味を考えたりせず、ただ身体の感覚をあるがままに言語化していくのです。そうすると自然に意味がわかってくるものだから。

あと、湧いてくるイメージは実態から離れた妄想にならないように、ていねいに身体の感覚にもどして確かめる、のがコツです。

身体の感覚にもどして確かめるときには、湧いてくるイメージをじっくり味わいながら、そのときの身体の感覚がどういう状態なのかを言語化します。

例えば、のどが詰まるような感じ、とか、胸のあたりがモヤモヤする、とか、お腹のあたりに重い感じがあるとか。

わたしはこのプロセスのひと区切りはすっかり感じ切ったので、解説をまとめて書くと。

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粘土は、決まったやり方、型、がしめる割合がおおい状態をあらわしている。粘土はやわらかいけれど、もともとが土。”土”は物質の性質をもつでしょう。物質とは型をもち、固められている。

いっぽう、ガラスをつくる工程では、ガラスの材料は砂だけれど、砂は熱い火に溶かされてもう原型をとどめていない。ここでは”火”の性質がクローズアップされる。”火”は型にはまらない自由なインスピレーションをあらわしている。

砂をとかして原型をとどめない、熱い液状のガラスにしてから吹く息で形づくる、という意味は、いろんな型を学ぶのだけれど、学んだ原型をとどめないほどに自分の中に吸収したうえで、もうそれにはとらわれずに、のびのびと自分のなかからあふれ出るインスピレーションを生かす、ということ。

つまり、丸っとザクっとまとめてしまうと、わたしの潜在意識は、わたしに「型にはまるんじゃなくて、その学びを吸収しきって忘れてしまい、自由にのびのびと書きなさい」と伝えていた、のですね。

おまけに、型に抵抗する反骨心も多分にもちつつも、実はのびのびと書きたい精神をおおらかに解放することもできなかったわたしは、自由な精神を表現する人に憧れたり大いに影響を受けたりしているんだな、ということもわかった。ありがとうございます。


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