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惑星のような悲喜こもごもたちを、あたたく見つめる太陽のまなざしをもつ

人は、惑星のようにまどいつつ、揺らぎながら自分の軸をみつけていく存在なんだなぁ、というしみじみとした思いが、わたしにはあるのですが。


同時に、人は太陽のように変わらない視点ももてるんだよね、という実感もあります。

それは、自分のなかで、揺らぎながら悲喜こもごもを感じているものたちを、ただただ、あるがままに、あたたく見つめるまなざし。

これを意識するとよゆうがでて、

悲しんでいる自分のいちぶ、
怒っている自分のいちぶ、
しっかりしろと批判してくる自分のいちぶ、

どれかひとつに乗っとられずに、心の中にそれぞれの居場所をつくってあげられるんです。

居場所をもらって、ああ、そんなふうに感じているんだねぇ、とあるがままに認めてもらい、あたたかく見守られている。

そうすると、自分の内がわにあらわれた悲喜こもごも達は、それぞれの存在を必要なペースでまっとうして、大元の生命エネルギーのなかへと還っていけるんです。

これが起こると、悲しみや怒りとともに固くこわばっていた身体の感覚がほどけて、あたたかくなり、湯上りのようなホワッとした気分になるときもあります。そうしながら、自分が本当に求めていたことが理解でき、自分とつながった安心や安定感が湧いてきます。

この体験を重ねていくと、どんなことがあっても大丈夫、というしなやかな強さが育まれます。

こういう体験とは逆に、悲しみであれ、怒りであれ。あるがままに認めてもらえず、見てもらえず、押さえこまれると、大いなる自分の生命エネルギーと分離したままの状態です。

そうすると、本体の自分自身が、さみしさや孤独を感じつづけることになります。はっきりとした理由がわからなくても。

子どもの頃に心から安心できる居場所がなくて、泣きたいのを我慢して、泣いたとしても受容はされなければ孤独なままで、分離したまま。

こうして、かつての怒りや悲しみが癒されないまま、分離したさみしさを抱えて、なんとか強がって生きている大人たちも少なくないんじゃないかな。

強がる防衛的姿勢がすごく強い態度を生むこともあるけれど、その奥には、孤独で怖がっている小さな子どもがいます。

子どもの頃に、まわりの大人たちの太陽のようなまなざしに見守られて、泣き笑い、怒りを、あるがままに表現できる安全基地があったらいいですよね。

まわりがつくってくれた安全基地の感覚は、自分の内がわにも育まれていくから、自立したあとにも心を守ってくれる。

もし、いま、安全基地がもてなくて、傷つきやすく、過剰に防衛しなければいられないのなら。

自分の内がわに湧きあがる、考え、感情、感覚を、すべてあるがままにあたたかく認めていくと、自分とつながる安心の感覚を育てていくことができますよ。

ゆっくりとでいいから、ただ、あるがままに自分の内がわのものたちを見つめるまなざし。あたたかい太陽の陽ざしをイメージしながら、意識してみてください。


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安全基地を育みながら、過去からもちこした感情や思いこみを解放し、今を生きる自分と対話する方法をお伝えするワークショップを開催しています。

来年もあらたな募集をしますので、自分とつながり幸せを感じながら生きる体質づくりに、ぜひ。






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