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my path〜私は死ぬために生きる~

「ちこの好奇心とパッションはどこから生まれるの?」
最近よく聞かれるの。

1.長崎という田舎で生きた閉塞感と、自営業の不安定な家庭で劣等感を感じて過ごした幼少期。-yes

2.両親に褒められなかった幼少期。-yes

傍から見たら「持たない」ことが力になったの。


持たないことで持てたのは、両親、祖父母や先祖と無限に繋がっている感覚。

真に愛されるとはどういうことなのか。
彼等は、何があっても愛情で包んでくれる無限の存在だった。

自分のルーツである、両親や祖父母、先祖とは、いつでも、いつまでも繋がっている感覚がある。

つまり、彼等の「生」の道の上に、自分の生があること。

それが「彼等」であることが心から誇り高く、
彼等の「生」こそが私の存在価値の源泉。

私を形創った過去は、
どうしてもパブリックにできない重たい内容がとても、とても多いから、
まずは、今書けるところまで残したいとおもう。


「死」
これが私の力の源泉。


9歳の時、突然祖父が他界した。

隔離された病室で呼吸器をつけた祖父。
お医者さんが必ず治してくれる、元気になると疑わなかった自分。

「おじいちゃんが亡くなった。」一本の電話。

亡くなった、、?
そんなのありえない。昨日まで生きてたじゃん。

しばらくの間、理解できなかった。

祖父の姿を、思い出した。

あぁ、おじいちゃん、話せてなかった。
あぁ、おじいちゃん、笑ってなかった。
あぁ、おじいちゃん、、、、

あぁ、あれは最期だったんだ。

当然明日も生きていると勘違いしていた。

「ありがとう」を伝えられなかった。
悔やんでも、悔やんでも悔やみきれない。

おじいちゃん、あんなに、あんなに愛してくれたのに。ごめんね。
今でも謝り続けてるの。


人間には終わりがあるという事実。
「死」への恐怖。

いくら泣いても、いくら祈っても、
自らの命を削ってもいいから戻ってきてほしいとさえ思った。

そうしても、戻らないもの「死」が許せなかった。


かなり荒んでた9歳の私にとっては、
人生に時間的制限があるという事実が
受け入れられなかった。
とにかく泣いて、泣いて、、泣いた。


すこし大人しくなった。


でも、 
私より祖父を知る祖母は泣かなかった。

何を思っているんだろう、何を考えているだろうと思った。

祖母は本当に、強い人だった。


13歳の時、父方の祖父も他界した。

最期の言葉は、
「智子に出会えたからこの人生は幸せだった。一つの後悔も無いから死なせてほしい」
手を握って、涙を流しながら、伝えてくれた。

「ああ、おじいちゃんは、生を全うして死を受け入れたんだ」と、
私はそれを受け入れなきゃいけないんだと。

またたくさん泣いた。人目も憚らず。声をあげて、泣いた。

彼の死に方が、死への向き合い方を教えてくれた。

祖父の死に方は、本当に。
本当に、美しかった。


18歳の時、
父から「大切な話がある。」と呼ばれた。

「智子は被爆3世という事実を背負って生きなきゃいけんとよ。」
と伝えられた。

あまりにも重い荷物だった。

私の意思外、つまり生まれた時点で決まっていて、
持たなくていいものを持たされた、と当時は思った。

長崎で育ったから、核兵器廃絶や世界平和、
平和教育を十二分に受けてきた身として、
それを訴えることは使命だともいえるの。

だけど、
私が、より興味を持ったのは「人間の死に方」だった。

そう。
「死」に向かう「生」という捉え方。

自分のルーツである、戦時中を生きた人達みんなが言ってた、

「生きると選択できること自体が贅沢なんだよ」って。

そこから、過去の偉人を含めて、
世界の人々の「死」の向き合い方とか、
死にむけた「生」き方とか、知りたくて、生きてきた。

死までの過程に強い興味があるし、
死に向けて限られた「生」を全うしたいし、
死ぬまで、21世紀の「生と死」について真剣に向き合っていきたい。

人類史や哲学、アートすべてに興味があるのは、
最善の「死」のための行動なんだろうなって思う。

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