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金ローで『ボヘミアン・ラプソディ』を観て自分の打算に気づいた話

前置き

このページは、金曜ロードショーでたまたまやってたから一度観た程度のにわかが書いていることを前提に読んでほしい。
このシーンはそうじゃない、その解釈はおかしい、など気になるところがあっても許してほしい。
私は映画について語りたいというより、映画を見て自分について向き合わされ、考えたことについて書きたいだけなので、ご容赦いただきたい。


『ボヘミアン・ラプソディ』で描かれる「居場所」

映画『ボヘミアン・ラプソディ』観てて印象に残ったシーン。

クイーンが売れ始めたとき、メンバー達は「俺たちは家族だ」と言った。確かにフレディにとってそこは居場所だった。「歌っている時は自分の全てをさらけ出せる」とも言っていた。
かなり儲けられるようになったある時、大きな家を買った。その家の中の一部屋に住まうよう、メンバーであるロジャーに提案した。だけど断られる。「俺には嫁が居る」と言って。そこできっと「Queenは本当に"家族"なのか?」と感じたんじゃなかろうか。
またある時、マネージャーのポールにキスされたり、ポールが男性と一夜を過ごしたことを仄めかされたりする中で、自分の性的嗜好に気づく。当時付き合っていたメアリーに「自分はバイセクシャルだ」と告白する。するとメアリーは「ゲイなのね?」と返す。(実際のところどっちが真実だったのかはよく分からない。ゲイだと自覚しているけどメアリーへの愛を自分で否定したくないからバイセクだと言っただけかもしれないし、本当にそうだったのかもしれない。)メアリーはもともと、フレディが男性共演者と随分距離が近かったところを見ていたから、腑に落ちる一方で、やはりショックを受ける。そして次第にフレディから距離を取るようになる。ここでもフレディは、家族をつくれなかった。
それからフレディはソロ活動をするようになり、Queenは解散、メアリーと連絡を取ることもできないまま、夜通し酒や薬に溺れ、多くの愛人と一夜限りの関係を持つ生活を送る。居場所を求めて。
ざっくり言うとそんな感じのシーンがあった。

私は「THE セクシャルマイノリティ」じゃないから、共感したとは言えないんだけど(きっと私には想像しえぬものがあるだろうから)、それでも部分的には共感したし、そういうひと多いんじゃないかなと思った。
異性の恋人を作って、結婚して、子供をつくることが正常な人生とされる社会で、同性愛者や恋愛をしない人が居場所をつくるのって難しくない?
友達や仕事仲間、色んな場所で人間関係を築いて、愛し合うけれど、結局異性愛者達は別の場所に本当の居場所を作るじゃん。口では「好き」だとか「家族だ」とか言っても結局独りにされる。
結局自分はいつまでも誰かの一番にはなれないと感じる。だから異性愛者の真似事をする。嘘をついたり隠したりしてでも居場所を作ろうとする。
こういうお話を見ると自分と重ねてしまって、自分が嫌になる。

『ストーリー・オブ・マイライフ』で描かれる「居場所」

前に、別の映画『ストーリー・オブ・マイライフ わたしたちの若草物語』を観た。四姉妹がそれぞれの人生を歩んでいく話。どこに居場所を作るか、決めていくお話。
四姉妹の次女である、主人公のジョーは恋愛が分からない。長女のメグは愛する人と巡り会い、貧しいながらも夫に寄り添う。三女のベスは病気がちで、若くして亡くなってしまう。四女のエイミーは財産のために金持ちの男との結婚を望む。姉や妹は、愛する人を見つけて、財産のために相手を見つけて、病気のせいで、家から居なくなる。ずっと一緒に居た四姉妹は散り散りになって、ジョーは独りになる。
そんなある時、ジョーは昔からの友人ローリーにプロポーズされる。自分がローリーに抱いている感情は恋愛ではない、結婚したいとは思わないと感じ、一度は断る。しかし、姉妹が離れていき、自分は独りだと実感するにつれて、プロポーズを断ったことを後悔し始める。そんな葛藤を、ジョーは母に告白する。「彼とは友人で居たい。だけど…だけど寂しくてたまらないの」と。

この映画を観た時も、『ボヘミアン・ラプソディ』を観た時と同じことを考えた。
私も居場所をつくるために恋愛をしていると。
だって友達はずっとそばにいてくれる訳じゃない。私と同じだけの愛を返してくれる確証はない。
私は別に恋愛じゃなくていい。手を繋ぐこともキスすることもセックスすることも別に要らない。
ただ私と一緒に居ることを当然のことと思ってほしいだけ。それぞれ自分のしたいことをして、好きなように人生を歩んで、だけど当たり前のように同じ場所に帰ってきてほしいだけだ。その関係につく名前は何だっていい。
それは恋愛関係だと、何故かすごくスムーズにそんな関係になれる。相手と「恋人ってこういうもの」と共通認識を持てているからだろうか。友達とは簡単にそうなれないのに、恋愛関係だと何故か簡単にそうなれる。

私の恋人と私の居場所

私には恋人が居る。恋人との関係について、私はそれが恋愛じゃなくたっていいと思っているけれど、相手は多分そうじゃない。恋愛関係だからそばにいる。もし、恋愛はやめましょうと告げたら、きっと「じゃあもうそばにいる理由はないね」と私から離れていく。だから私は恋人として接する。
普段はその関係性の幸せなところしか目に入らないけど、こういう作品を見ると自分がいかに打算的に関係を築いているのか思い知らされて嫌になる。私のしていることが果たして悪いことなのかどうか、判断もつかないまま時はすぎる。そして結婚適齢期になったら、きっと川の流れに身を任せるように結婚する。子供は今のところ産みたくないからどうなるか分からないけど…なんだかんだ産んでそうな気もする。
簡単に言うと、「普通」で居た方が楽なのだ。相手も「普通」の認識を持っているから、いちいち相談したり衝突したりする必要もなく、暗黙の了解で望む関係性が手に入れられる。外野からおかしいだのこうすべきだの言われることもない。居場所のためにわざわざ何かに抗う必要がない。
そんな理由で私は恋愛をしている。多分。愛してない訳ではないんだけど。

映画『ボヘミアン・ラプソディ』では、結局Queenが再結成して、盛大なチャリティライブで喝采を浴び、フレディはそこに居場所を見いだす。
『ストーリー・オブ・マイライフ』では、姉妹や友人と学校を開き、共に過ごす。
どちらとも恋愛とは違う場所に居場所を見つける。(フレディは新しい恋人も居たけど。)
物語としてはハッピーエンドなんだけど、実際のところ幸せになれたんだろうか。私が主人公なら、あんな風に幸せそうには笑えないんじゃないだろうか。自分はここにしか居場所は無いけど、自分の仲間は他のところにも居場所がある。それがこの上なく「ずるい」と感じてしまう。今のところ私はこれらの作品の主人公のようにはなれなさそうだ。

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