優しさの正体

わたしは思春期の間中ずっと自分を優しいと思えたことが1度もなく

「道徳」の授業や国語の授業で習うお話には
深く感動もしなかったし

「総合」の時間に習う、戦争や世界の貧困の話にもピンとこなかった

こんな人が世界には
歴史にはいるのです
と聞かされても

この時代でよかったー!
とは思っても全然感情移入が出来ず

こけた友達にもウケることはあっても
心配しなかったり

なにより幼い弟たちの面倒も
可愛がって見てあげれず
友達と遊ぶときには混ぜあげることもせず
疎ましく思い部屋から追い出したりしていた

幼なじみの女の子はその子の弟を可愛がり
よく面倒を見ていたの横目に
どうして可愛がれるのか不思議に思ったりもした

大人になっても
嫌なやつがいれば
頭に鳥の糞おちろとか
鳩がむらがれ!とか
買いたてのケータイトイレに落とせばいいのに
小指をタンスにぶつけろ!
とか

しょーもない願掛けをしたりしていた

思いやりの心や優しさがないんじゃないかと
そんなことがちょっとコンプレックスだったりして

大学生になったころ

おじぃちゃんが亡くなって10年間一人暮らしをしていたおばぁちゃんの足が悪くなって

歩けないので
わたしたち家族の家に引き取ることになった

来た頃
歩けないおばぁちゃんは
お風呂にも入れないし
1人でトイレも行けない

なので突然介護は始まって
お母さんとかわるがわる
オムツを変えたり
足湯をして
足を洗ってあげたりしていた

多少今日はめんどくさいかな?という日はあっても
嫌だったことは一度もなかった
そのかわり歩けないことを本人は辛いそうだったけど
心配してあげれるわけでもなかった

足湯をしながら
足を洗っていると

おばぁちゃんは決まって
「ちぃちゃんは優しいね」と言った

おばぁちゃんの世話をするたび

おばぁちゃんは
「ちぃちゃんは本当に優しい」という 

すると
本当に「優しい」ような気がして

「わたしは足湯してあげれて嬉しいからね」
と伝えた


おばぁちゃんのおかげで

わたしは生まれてはじめて
「優しく」なれたのだ

わたしが優しいのではなく
おばぁちゃんがいることで「優しく」なれて

お世話が出来たから「優しく」なれた

おばぁちゃんがいなければ
お世話する機会がないなら
「優しく」さえいれないということ

つまり優しさは
目の前に
なにかしてあげられる相手がいて
そして、相手が優しいと感じて
はじめて「優しく」なれるのだと知った

自分1人で
「わたしは優しい」なんてあり得るわけないと知った

わたしは「優しく」いられるのは
世話をさせてもらってるからだと思った

おばぁちゃんのおかげで優しいのだ

引き取ってリハビリも始めたおばぁちゃんは
自分でトイレも行けるほど回復した

引き取って10年
倒れたり元気になったりまた介護をしたり
施設に入ったり入院したりして

おばぁちゃんは去年に89歳で大往生で亡くなった

一回忌がやって来て

優しくいられるのは
優しく出来る相手がいるからだと思い出す

大好きなおばあちゃんのおもしろエピソードは
いっぱいあるんだけど
とにかく優しいおばあちゃんは人にも「優しさ」を
見つけられる人だったんだな
とも思う

締めの言葉はわからなくなったけど
いまは自分が優しくても優しくなくてもどっちでもよいかなと思う窓際のちっち

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