見出し画像

退職を覚悟して貫かれた魂の講義録。53刷を数える不朽の名著『修身教授録』

考えてみたら、『修身教授録』も致知出版社さんですよね。これがない書店って恥ずかしいじゃないですか。うちでも売れていて。そういえばこれも致知さんだったなとかね。前、他の書店にいた時、ビジネス書の強いお店だったんですけれど、早稲田の教授とかも買っていくんですけれど、『修身教授録』が一回切れた時があって、その時にものすごく怒られたんですよね。これは書店にないと恥ずかしいものなんだと怒られて覚えました。

もちろん天狼院にもあるんですが、これを見たお客様には「ただのおしゃれな本屋かと思ったけど、なんだちゃんと押さえているね」と言われます。

天狼院書店店主・三浦崇典氏(『READING LIFE 創刊号』より)

数年前、書店業界の革命児といわれる天狼院書店の三浦崇典さんにお会いした際、伺った話である。新刊でもないのに、在庫を切らすと、お客様からものすごく怒られてしまう本――。

『修身教授録』は平成元年に弊社から刊行し、これまでに53刷、15万部を発行。発売から30年以上が経ったいまも、続々と増刷を重ねる弊社の代表的ロング&ベストセラーである。

本書は、昭和12年から14年までの2年間に行われた大阪天王寺師範学校(現・大阪教育大学)での森信三先生の講義をまとめたもので、その内容は「読書」「挨拶」「立志」「人生の深さ」「伝記を読む時期」「ねばり」など幅広く、示唆に富む。

倫理・哲学の講師だった森先生は、同時に「修身科」の授業も担当することになったのだが、当時の検定教科書は徳目的に偏する嫌いがあり、内容的にも満たされぬものがあった。そこで先生は、検定教科書をいっさい使用せず、独自の講述により、全身心を上げてこれにあたられたのだった。

戦前の当時としては、異例中の異例。万が一、文部省の督学官が来た際には「退職を覚悟して貫く外あるまい」と肚を決め、講義に臨んだという。そして、生徒たちに筆録を請い、その記録を留めさせたため、幻の講義は後世にも生き続けることとなった(なお、学校の講義は一言一句が実践につながらなければならないとの考えから、「書写力の一番遅い生徒を最前列の窓辺にかけさせ、相手の書く速度を見ながら話すことにした」そうだ)。

本書は、教師をめざす若き生徒たちに向けて行われた講義録であるが、その内容は教育者だけでなく、ビジネスマンにも強く響くものであることは、本書を座右の書として掲げておられる以下の方々のコメントにも表れている。

最初に『修身教授録』を手にした時は魂の根幹が強烈に共感を覚えて、実はその日の晩は寝られなかったんですよ。何よりも自分の浅学非才であることが悔しかった。

――SBIホールディングス社長・北尾吉孝氏

画像1

画像2

付箋だらけになった北尾氏の『修身教授録』
こういう生き方が人間としての理想なのだということを指し示してくれているのが、『修身教授録』の持つ最大価値ではないかと思います。

――小宮コンサルタンツ社長・小宮一慶氏
人としていかにあるべきかがホスピタリティ。まさに森信三先生の修身の教えそのものです。

――人とホスピタリティ研究所代表、ザ・リッツ・カールトン元日本支社長・高野登氏
『代表的日本人』とともに、グロービス社員の必読書になっている本の一つが、『修身教授録』です。非常に感動し、何回も読み返しています。

――グロービス経営大学院学長・堀義人氏
只の困難であるに過ぎないことを、不可能と思い込んでいる人たちに、可能への道を拓いてくれる知恵の宝庫です。

――イエローハット創業者・鍵山秀三郎氏


そして、こんな方もこの本を。

僕は気合いということを、教育者・森信三先生の『修身教授録』から教わりました。この本に出会ったのは、ボディービルジムを開きながらプロレスに復帰して間もなく、試合中に大怪我をして再びリングを降りなくてはならなくなった最悪の状態の時でしたね。

この本の中にある「二度とない人生、いかに生きるかという、生涯の根本方向を洞察する見識、並びにそれを実現する上に生ずる一切の困難に打ち勝つ大決心を打ち立てる覚悟がなくてはならない」という一節に救われたんです。この言葉に出会った時の衝撃は今も忘れませんね。二度とない人生をいかに生きるかを考えたとき、その覚悟を自分なりに表現するのに思いついたのが「気合いだ! 燃えろ!」という言葉だったわけです。

――アニマル浜口トレーニングジム会長・アニマル浜口氏

時代を越え、職業の枠を越え、実に多くの人の魂を揺り動かしてきた『修身教授録』。しかし本書には、ただひとつだけ難点があった。

全532ページという大著であること。そして、2,300円という値段。興味はあっても、試しにちょっと読んでみようか……という気にはなかなか成りにくいものがある。そこで今回のnoteでは、特別に本書から一講義分を抜き出し、全文公開を試みることにした。ぜひご覧いただきたい。

第26講「仕事の処理」

先生、級長をして雑誌『渾沌』を配らされる。先生ご自身は『渾沌』の総目録とプリントの修身教授録を配布せられる。「このプリントを読んだ感想を来週の火曜に提出して下さい。それで昨日申した本の感想は、来年の学期始めに出して貰います」(この時O君挙手)「私はもう昨夜感想を書いてしまいました」「そうですか、それは早いですね。それを称して拙速主義というのです。実は今日はそのことをお話しようと思っていたところです」

さて、われわれは国家社会の一員として、毎日その日その日を過ごしていくに当たっては、常に色々な仕事を処理していかなければなりません。

そこで、この仕事の処理ということは、上は大臣高官より、下はわれわれ一般国民に至るまで、その日々の生活は、ある意味ではすべて仕事の処理の連続であり、それに明け暮れていると言ってもよいほどです。

このことはまた諸君らのように、ご両親のすねを噛っている学生の身分でも例外ではなくて、なかなか仕事が多いようであります。そこで仕事の処理法についてお話をすることは、必ずしも無駄ではあるまいと思うのです。

このように、われわれ人間の生活は、ある意味ではこれを仕事から仕事へと、まったく仕事の連続だと言ってもよいでしょう。同時にその意味からは、人間の偉さも、この仕事の処理いかんによって決まる、とも言えるかと思うほどです。

かようなことを申しますと、諸君らは意外の感をされるかとも思いますが、しかしこの事は、それが一見いかにも平凡であり、つまらなく見えるだけに、かえってそこには、容易に軽蔑し得ない真理が含まれているかと思うのです。

同時にこの真理は、ある意味では優れた人ほど、強く感じていられるのではないかと思います。それというのも、一般に優れた人ほど仕事が多く、またその種類も複雑になってくるからであります。

そこでよほどしっかりしていないと、仕事の処理がつきかねるということにもなるわけです。すなわちどれを取ってどれを捨て、何を先にしてどれを後にすべきかという判断を、明敏な頭脳をもって決定すると共に、断乎たる意志をもって、これを遂行していかねばならぬからであります。

このように、仕事の処理いかんに、その人の人間としての偉さのほどが、窺えるとさえ言えるほどであります。実際われわれは、平生うっかりしていると、仕事の処理などということに、修養上の一つの大事な点があろうなどとは、ともすれば気付きがたいのでありますが、事実は必ずしもそうではないのです。

否、真の修養というものは、その現れた形の上からは、ある意味ではこの仕事の処理という点に、その中心があるとさえ言えるほどです。少なくとも、そう言える立場があると思うのです。

なるほど、坐禅をしたり静坐をすることなども、確かに修養上の一つの大事なことに相違ないでしょう。あるいはまた、寸暇を惜しんで読書をするということなども、修養上確かに大事なことと言えましょう。
しかしわれわれが、かような修養を必要とするゆえんを突きつめたら、畢竟(ひっきょう)するにわれわれの日常生活を、真に充実した深みのあるものたらしめんがための、方便と言ってもよいでしょう。

ではそのように、日常生活を充実したものにするとは、一体何なのかと言えば、これを最も手近な点から言えば、結局自己のなすべき仕事を、少しの隙間もおかずに、着々と次から次へと処理して行くことだと言ってもよいでしょう。

すなわち、少しも仕事を溜めないで、あたかも流水の淀みなく流れるように、当面している仕事を次々と処理していく。これがいわゆる充実した生活と言われるものの、内容ではないでしょうか。

さらにまた深みのある生活と言っても、この立場から見たならば、自分のなすべき仕事の意味をよく知り、その意義の大きなことがよく分かったら、仕事は次つぎと果たしていかれるはずであって、そこにこそ、人間としての真の修養があるとも言えましょう。

否、極言すれば、人生の意義などといっても、結局この点を離れては空となるのではないでしょうか。また実にそこまで深く会得するのでなければ、仕事を真にとどこおりなく処理していくことは、できまいと思うのです。

そこで、今かような立場に立って、仕事の処理上の心がけとも言うべきものを、少しくお話してみたいと思います。

それについて第一に大切なことは、先にも申したように、仕事の処理をもって、自分の修養の第一義だと深く自覚することでしょう。この根本の自覚がなくて、仕事を単なる雑務だなどと考えている程度では、とうてい真の仕事の処理はできないでしょう。

実際この雑務という言葉は、私達のよく耳にする言葉ですが、「一言もってその人を知る」とは、まさにこのような場合にも当てはまるかと思うほどです。

それというのも、その人自身それを雑務と思うが故に雑務となるのであって、もしその人が、それをもって自分の修養の根本義だと考えたならば、下手な坐禅などするより、遥かに深い意味を持ってくるでしょう。

さて次に大切なことは、このような自覚に立って、仕事の本末軽重をよく考えて、それによって事をする順序次第を立てるということです。すなわち一般的には大切なことを先にして、比較的軽いものを後回しにするということです。

また時には、軽いものは思い切って捨て去る場合もないとは言えないでしょう。捨て去る場合には、断乎として切って捨てるということが大切です。これ畢竟するに私欲を断つの道でもあるからです。同時に、このような私欲切断の英断が下せなければ、仕事はなかなか捗らぬものであります。
 
次に大切なことは、同じく大事な事柄の中でも、大体何から片付けるかという前後の順序を明弁するということです。この前後の順序を誤ると、仕事の処理はその円滑が妨げられることになります。

そしてこの前後の順序を決めるには、実に文字通り明弁を要するのであります。理論を考える上にも、明弁ということが言えないわけでありませんが、しかし現実の実務における先後の順序を明らかにするに至って、文字通り明弁の知を要すると思うのです。

さて次には、このように明弁せられた順序にしたがって、まず真先に片付けるべき仕事に、思い切って着手するということが大切です。この「とにかく手をつける」ということは、仕事を処理する上での最大の秘訣と言ってよいでしょう。

現にこのことは、ヒルティという人の『幸福論』という書物の中にも、力説せられている事柄であります。ついでですが、このヒルティの『幸福論』は有名な書物ですから、諸君らもそのうちぜひ一読されるがよいと思います。
ところがヒルティはこの書物の巻頭を、まずこの仕事の処理法という問題に充てているのです。もって仕事の処理ということが、人間の修養上、いかに重大な意味をもつかがお分かりでしょう。

そこで諸君らも、他日世の中へ出て、近頃はどうも仕事が渋滞して困ると思ったら、このヒルティの『幸福論』をとり出して、その最初の論文を読んでみられるがよいでしょう。おそらく、仕事に対する諸君の陣容は、即時立て直されることでありましょう。

そこで諸君らも、他日世の中へ出て、近頃はどうも仕事が渋滞して困ると思ったら、このヒルティの『幸福論』をとり出して、その最初の論文を読んでみられるがよいでしょう。おそらく、仕事に対する諸君の陣容は、即時立て直されることでありましょう。

それ故ここには、「まず着手する」ということが、仕事の処理上何故重大な意味を持つか、ということの詳しい説明は、その方へ委せるとして、次に大切なことは、一度着手した仕事は一気呵成にやってのけるということです。

同時にまたそのためには、最初から最上の出来映えを、という欲を出さないということです。すなわち、仕上げはまず八十点級というつもりで、とにかく一気に仕上げることが大切です。

これはある意味では拙速主義と言ってもよいでしょうが、このいい意味での拙速主義ということが、仕事の処理上、一つの秘訣と言ってよいのです。
ですから、もしこの呼吸が分からないで、へたな欲にからまって、次つぎと期日を遅らせなどしていますと、いよいよ気はいらだってきて、結局最後のおちは期日が後れて、しかもその出来映えさえも、不結果に終わるということになりましょう。

大体以上のようなことが、仕事の処理上のこつであり秘訣と言ってよいでしょう。しかしその根本は、どこまでも仕事を次つぎと処理していって、絶対に溜めぬところに、自己鍛錬としての修養の目標があるということを、深く自覚することです。

それというのも、そもそも仕事の処理ということは、いわば寡兵をもって大敵に向かうようなものであって、一心を集中して、もって中央突破を試みるにもひとしいのです。同時にまた広くは人生の秘訣も、結局これ以外にないとも言えましょう。

実際あれこれと気が散って、自分がなさねばならぬ眼前の仕事を後回しにしているような人間は、仮に才子ではあるとしても、真に深く人生を生きる人とは言えないでしょう。

もし諸君らの中に、私のこの言葉をもって、「これは自分のことを言われている」と感じる人があったとしたら、今日限りその人はいわゆる散兵方式を改めて、自分の全エネルギーを一点に集中して、中央突破を試みられるがよいでしょう。
同時にこの点に関する諸君らの生活態度の改善は、実は諸君らの人格的甦生の第一歩と言ってよいでしょう。
 
先生講義が終わって礼をされてから、「真に徹底して仕事の処理のできる人は、それだけですでにひとかどの人物と言ってよいでしょう」と言って、微笑されながら教室から出ていかれた。

いかがだったろうか、森先生の「修身」講義実録。こんな熱烈な講義が79講も詰まっている。本書にこもる先生の魂の息吹が、読む者の心を揺さぶらずにはおかない。