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1か月分・全文公開(ためし読み)「1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書」

発売2か月半にして、20万部を超えるベストセラーとなった『1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書』。424頁、30万字(通常書籍の約3倍)という分量に準じて、価格も2350円+税と高額で、ご購入を迷われている方も多いかもしれません。

そんな方のために、1月1日から31日までの1か月分の収録内容を【全文公開】させていただくことにしました。あなたの心を熱くする31篇。ぜひお読みください。

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◎1月1日
「知恵の蔵をひらく」
 稲盛和夫(京セラ名誉会長)


私は技術者として、また経営者として、長く「ものづくり」に携わる中で、偉大な存在を実感し、敬虔な思いを新たにすることが少なくありませんでした。

大きな叡知に触れた思いがして、それに導かれるように、様々な新製品開発に成功し、事業を成長発展させ、さらには充実した人生を歩んできたように思うのです。

このことを、私は次のように考えています。

それは偶然でもなければ、私の才能がもたらした必然でもない。この宇宙のどこかに、「知恵の蔵(真理の蔵)」ともいうべき場所があって、私は自分でも気がつかないうちに、その蔵に蓄えられた「叡知」を、新しい発想やひらめきとして、そのつど引き出してきた。

汲めども尽きない「叡知の井戸」、それは宇宙、または神が蔵している普遍の真理のようなもので、その叡知を授けられたことで、人類は技術を進歩させ、文明を発達させることができた。

私自身もまた、必死になって研究に打ち込んでいる時に、その叡知の一端に触れることで、画期的な新材料や新製品を世に送り出すことができた――そのように思えてならないのです。

私は「京都賞」の授賞式のときなどに、世界の知性ともいうべき、各分野を代表する研究者と接することがあります。

その時、彼らが一様に、画期的な発明発見に至るプロセスで、創造的なひらめき(インスピレーション)を、あたかも神の啓示のごとく受けた瞬間があることを知り、驚くのです。

彼らが言うには、「創造」の瞬間とは、人知れず努力を重ねている研究生活のさなかに、ふとした休息をとった瞬間であったり、時には就寝時の夢の中であったりするそうです。

そのような時に、「知恵の蔵」の扉がひらき、ヒントが与えられるというのです。

エジソンが電気通信の分野で、画期的な発明発見を続けることができたのも、まさに人並み外れた凄まじい研鑽を重ねた結果、「知恵の蔵」から人より多くインスピレーションを授けられたということではなかったでしょうか。

人類に新しい地平をひらいた偉大な先人たちの功績を顧みる時、彼らは「知恵の蔵」からもたらされた叡知を創造力の源として、神業のごとき高度な技術を我がものとして、文明を発展させてきたのだと、私には思えてならないのです。


◎1月2日
「一日の決算は一日にやる―土光敏夫の座右の銘」
 吉良節子(土光敏夫元秘書)


やり遂げた臨調は解散。その功績を認められ、土光敏夫さんは民間人では初めて生前に「勲一等旭日桐花大綬章」を受章しました。その後、次第にお体に無理が利かなくなり、ご自宅で静養されるようになりました。それでも社内には「土光さんの意見を聞こう」という案件が多く、私は週に一度はご自宅まで伺っていました。

神奈川の鶴見にひっそりと佇む土光家。「地味で質素」を絵に描いたようなその家は、およそ東芝の社長や経団連の会長を歴任された方のお宅とは思えません。

門を開けようとすると「ギーギー」と轟音が響き渡る。廊下を歩いてもギシギシいって、「女性の私が歩いて穴が開いたら恥ずかしいわ」といつも気を使いながら歩いていました。冷暖房設備がないあの家に、真夏にいらっしゃった方は、「あの家は暑くてなぁ」とぼやいていらっしゃいました。

秘書側が家の修理を申し出ても「まだ使えます」、クーラーの取り付けを申し出ても「いりません」の一点張り。「営業の話にみえるお客様もいらっしゃいます。冷暖房がないと営業上、困ります」と申し上げると、「会社が困るなら入れましょう」と快諾したものの、応接間のみ取り付けを許し、自分の部屋に取り付けることは拒みました。

受勲の際、土光さんは「個人は質素に、国は豊かに」とおっしゃいましたが、その人生はまさに言葉通りだったと思います。メザシが一番のごちそうで、着飾ることを嫌い、背広も鞄かばんも使い古したものを大切に使う。ペン一本も、文字が擦れるまで使っても「まだ使える、まだ書ける」と言って捨てようとなさいませんでした。

私心なく、公私の別に厳しく、質素を好んだ土光さんが、色紙を求められるといつも書いたのは「日新 日日新」という言葉でした。出典は中国の古典『大学』で、「きょうという一日は天地開闢以来初めて訪れた一日である。それも貧乏人にも王様にも、みな平等にやってくる。その一日を有意義に暮らすためには、その行いは昨日よりもきょう、きょうよりも明日は新しくなるべきだ」という意味があるそうです。

それについて、以前土光さんは次のようにお話しされていました。

「一日の決算は一日にやる。失敗もあるであろう。しかし、昨日を悔やむこともしないし、明日を思い煩うこともしない。新たにきょうという清浄無垢な日を迎える。ぼくはこれを銘として、毎朝『きょうを精いっぱい生きよう』と誓い、全力を傾けて生きる」この言葉に土光さんの人生が詰まっているような気がします。

◎1月3日
「仕事にも人生にも締め切りがある」
道場六三郎(銀座ろくさん亭主人)

修業時代、いつも僕は思っていた。「人の二倍は働こう」「人が三年かかって覚える仕事を一年で身につけよう」ってね。

下積みの期間をできるだけ短くして、早く一人前の仕事がしたかったから。そのためには、できるだけ手を早く動かして、仕事量をこなさなければいけない。だから修業時代からずっと「早く、きれいに」を念じながら、仕事をしてきたんだよ。念じていると、いろいろと工夫が出てくるんです。

駆け出しの頃はこんなことをしていました。ネギを切る時、人が二本持って切っていたら、僕は三本持ってやる。それができたら、四本、五本で挑戦してみる。さらに違う野菜でもやってみる。

そうすると仕事が早く片づくだけでなく、「きょうは一本多く切れるようになった」と励みになるんですね。それはささやかな前進にすぎないかもしれないけれど、それが仕事の楽しみや喜びにもなりました。

スピードアップだけでは、人の二倍の仕事をすることはできません。効率よく働くためには段取りが大切です。冷蔵庫の使い方一つにしても、工夫次第で仕事に差が出ます。できる料理人なら冷蔵庫を開けなくても、どこに何が入っているか分かっているもんです。すべて暗記しろというんじゃない。冷蔵庫の中を仕切って、どこに何が入っているかメモをとり、扉に張っておく。そうすると、指示された時にすぐ取り出せるし、庫内の温度も上がりません。

「冷蔵庫の開け閉めなんて些細なことだ」と思うようでは、一流の料理人にはなれませんね。そういう細かい部分にまで意識が回り、先の先を読むくらいに頭を働かせないと、少しぐらい料理の腕があっても大成しないですよ。

仕事にも人生にも締め切りがあります。それに間に合わせるためには、時間を無駄にせず何事もテキパキとこなさないと。これはどの仕事にも言えるんじゃないかなあ。

◎1月4日
「ドラッカー七つの教訓」
 上田惇生(ものつくり大学教授)


世界のビジネス界に大きな影響を与えているドラッカーですが、その思想形成にあたっては人生の中で七回の精神的な節目が訪れたことを著書の中で述べています。

その七つの経験から得た教訓を列記すると、以下のようになります。

一、目標とビジョンをもって行動する。

二、 常にベストを尽くす。「神々が見ている」と考える。

三、一時に一つのことに集中する。

四、 定期的に検証と反省を行い、計画を立てる。

五、新しい仕事が要求するものを考える。

六、 仕事で挙げるべき成果を書き留めておき、実際の結果をフィードバックする。

七、「何をもって憶えられたいか」を考える。

最初の教訓「目標とビジョンをもって行動する」を得たのは、ドラッカーが商社の見習いをしていた頃でした。

当時、彼は週一回オペラを聞きに行くのを楽しみにしていました。ある夜、信じられない力強さで人生の喜びを歌い上げるオペラを耳にし、その作者が八十歳を超えた後のヴェルディによるものであることを知ります。

なぜ八十歳にして並はずれた難しいオペラを書く仕事に取り組んだのか、との質問にヴェルディは「いつも満足できないできた。だから、もう一度挑戦する必要があった」と答えたのです。

十八歳ですでに音楽家として名を馳せていたヴェルディが、八十歳にして発したこの言葉は、一商社の見習いだったドラッカーの心に火をつけます。

何歳になっても、いつまでも諦あきらめずに挑戦し続けるこの言葉から、「目標とビジョンをもって行動する」ということを学び、習慣化したのがドラッカーの最初の体験でした。

その頃彼は、ギリシャの彫刻家・フェイディアスに関する一冊の本を読みます。これが二つ目の経験です。

フェイディアスはアテネのパンテオンの屋根に立つ彫刻群を完成させたことで知られています。彫刻の完成後、フェイディアスの請求書を見た会計官が「彫刻の背中は見えない。その分まで請求するとは何事か」と言ったところ、彼の答えはこうでした。

「そんなことはない。神々は見ている」と。この話を読んだドラッカーは、「神々しか見ていなくても、完全を求めていかなくてはならない」と肝に銘じます。

◎1月5日
「幸田露伴が発見した成功者の法則」
 渡部昇一(上智大学名誉教授)

幸田露伴は人生における運を大切に考えています。運というと他に依存した安易で卑俗な態度のように思われがちです。だが、露伴の言う運はそんなものではありません。その逆です。露伴は人生における成功者と失敗者を観察し、一つの法則を発見します。露伴は言います。

「大きな成功を遂げた人は、失敗を人のせいにするのではなく自分のせいにするという傾向が強い」

物事が上手くいかなかったり失敗してしまった時、人のせいにすれば自分は楽です。あいつがこうしなかったから上手くいかなかったのだ─あれがこうなっていなかったから失敗したのだ─物事をこのように捉えていれば、自分が傷つくことはありません。悪いのは他であって自分ではないのだから、気楽なものです。

だが、こういう態度では、物事はそこで終わってしまって、そこから得たり学んだりするものは何もありません。失敗や不運の因を自分に引き寄せて捉える人は辛い思いをするし、苦しみもします。しかし同時に、「あれはああではなく、こうすればよかった」という反省の思慮を持つことにもなります。それが進歩であり前進であり向上というものです。

失敗や不運を自分に引き寄せて考えることを続けた人間と、他のせいにして済ますことを繰り返してきた人間とでは、かなりの確率で運のよさがだんだん違ってくる、ということです。

露伴はこのことを、運命を引き寄せる二本の紐に譬えて述べています。一本はザラザラゴツゴツした針金のような紐で、それを引くと掌は切れ、指は傷つき、血が滲みます。それでも引き続けると、大きな運がやってきます。だが、手触りが絹のように心地いい紐を引っ張っていると、引き寄せられてくるのは不運であるというわけです。

幸運不運は気まぐれや偶然のものではありません。自分のあり方で引き寄せるものなのです。「失敗をしたら必ず自分のせいにせよ」露伴の説くシンプルなこのひと言は、人生を後悔しないための何よりの要訣です。

1日1話…10

◎1月6日
「人を育てる十の心得――加賀屋の流儀」
小田真弓(和倉温泉 加賀屋女将)


人を育てる上で大事なことで、まず前提として挙げられるのは、「現場に宝物あり」ということですね。やはり現場にいなければ分からないことがたくさんありますから、私は極力玄関に立ち、廊下を歩いて、危ないな、よくないなと思うことはすぐに注意して直させているんです。その上で、客室係を育てる上で大切だと感じていることは、十項目あります。

一つ目は、笑顔で相手のいいところを褒めてあげる。ここでのポイントは「ありがとう」と言うことです。よく「ご苦労さん」って 言うことがありますけど、どうしても上から目線での 物の言い方になりますから、私は「ありがとう」とか「ご苦労さまでした。ありがとう」と言うようにしています。

二つ目は、注意する時は言い方に気をつける。「あんた、こんなことしてダメよ」って頭ごなしに叱っても、いまの子は「何よ、あの言い方」「全然私の気持ちを分かってくれない」と反発するだけですから、 相手の言い分をまず聞き、「こんないい面を持っているけど、これだけは気をつけてね」と注意します。

三つ目は、相手との気持ちを通じ合わせる。朝社員に会ったら、こちらから先に笑顔で「おはよう」って挨拶をしますし、一人ひとりの顔色や体調、様子を見て、「どうしたの?」「風邪ひいた?」などと声を掛けるようにしています。

四つ目は、時には外部の研修や講演会などに出してあげて、気分転換させる。

五つ目は、不器用な人、要領よくできない人ほど、より可愛がって大事にしてあげる。できる人は放っておいても努力しますからね。

六つ目は、自己啓発の機会を体験させてあげる。加賀屋ではお茶や生け花などの作法や知識を学ぶ社内アカデミーを設けています。

七つ目は、ひと言多い子や段取り優先な子を注意する。たいていのクレームの原因が、ひと言多いか段取り優先のタイプなんですよ。言わなくてもいいことを余計に言ったり、お客様のペースを無視して自分の段取りどおりに進めようとして怒られる。「お客様はみんな違うんだから、一人ひとりに合わせればいいのよ」と話しています。

八つ目は、知識を教える。お料理のことや地域の歴史、美術工芸品など、客室係はいろんなことをお客様に聞かれますから、そういうことを一所懸命教えるんです。

九つ目は、相性が合わない場合には配置換えをする。何回言ってもどうしても喧嘩をする社員同士は、配置換えをして、お互いに気持ちよく仕事ができるようにしています。

最後は、責任は女将である私にあるということ。「最終的な責任は私が背負うから、自分が正しいと判断するとおりにやっていいよ」と言うんですが、そういう雰囲気をつくり、社員たちの創意工夫を後押しできるようにしています。

私の役割は舞台をつくることで、そこで美しく舞うのは社員たちです。社員たちがイキイキと楽しみながら働けるような環境を整えることが、私の仕事だと思っています。

◎1月7日
「ヒット商品を生み出す秘訣」
 佐藤可士和(クリエイティブディレクター)


ヒット商品を生み出すには、 商品の本質を見抜くことが肝要です。本質を見抜くとはある表層だけではなく、いろいろな角度から物事を観察し、立体的に理解するということです。

そのためのアプローチは様々ありますが、中でも僕が最も重要だと思うのは、「前提を疑う」ということです。これは僕のクリエイティブワークの原点ともいえるフランスの美術家、マルセル・デュシャンから学んだことです。

二十世紀初頭、皆が一所懸命絵を描いて、次は何派だとか言って競っている時に、デュシャンはその辺に売っている男性用の小便器にサインをして、それに「泉」というタイトルをつけて、美術展に出したんです。キャンバスの中にどんな絵を描くのかということが問われていた時代に、いや、そもそも絵を描く必要があるのかと。

見る人にインパクトを与えるために、敢あ えて便器という鑑賞するものとは程ほど遠いものを提示して、アートの本質とは何かをズバッと示した。つまり、そういう行為自体が作品であると。

ただ、必ずしも前提を否定することが目的ではありません。一度疑ってみたけど、やはり正しかったということも十分あり得るでしょう。大事なのは、「そもそも、これでいいのか?」と、その前提が正しいかどうかを一度検証してみることです。過去の慣習や常識にばかり囚われていては、絶対にそれ以上のアイデアは出てきませんから。

あと一つ挙げるとすれば、「人の話を聞く」ことが本質を見抜く要諦だといえます。相手の言わんとする本意をきちんと聞き出す。僕はそれを問診(もんしん)と言っていますが、プロジェクトを推進していく際はこの問診に多くの時間を割いています。じっくり悩みを聞きながら、相手の抱えている問題を洗い出し、取り組むべき課題を見つけていくのです。

問診にあたっては、 自分が常にニュートラルでいること、それが重要です。邪念が入るとダメですね。人間なので好き、嫌いとか気性の合う、合わないは当然あるじゃないですか。ただ、合わない人の言っていることでも正しければ、その意見に従うべきですし、仲のいい人でも間違っていれば「違いますよね」と言うべきでしょう。

感情のままに行動するのではなく、必要かどうかを判断の拠り所とする。いつも本質だけを見ていようと思っていれば、判断を間違えることはないでしょう。

◎1月8日
「独創力を発揮するための三条件―糸川英夫の教え」
的川泰宣(宇宙航空研究開発機構<JAXA>名誉教授・技術参与)


糸川英夫先生はよく「独創力」の大切さについて話されていましたが、一般向けに行われた講演会でこんなことがありました。先生は、幼い男の子を抱いて前の席で座っているお母さんに「その子を独創力のある子に育てたいと思いますか?」と聞かれました。

「もちろん」と答えたお母さんに、「そのためにあなたはどう育てるつもりですか?」と聞くと、そのお母さんは「独創力を発揮するには自由でなければいけないから、この子がやりたいと思ったことは何でもやらせます」と答えました。

先生は天井を見てしばらく考えていましたが「あなたは数年すると、絶望するでしょうな」と言われたんです。「何でも好きにやって独創力がつくのならチンパンジーには皆、独創力がある」と。

先生が続けて言われるには「人間には意志というものがあって、自分はこれをやりたい、という思いにどこまでも固執しなければいけない」と。いったんやりたいと思ったことは、絶対にやり遂げるという気持ちがなければ、やっぱり何もできません。一度決心したことは、石にしがみついてでもやり遂げる強い意志が必要だ、と第一に言われました。

第二には、過去にどんな人がいて、何をやったかを徹底的に学習しないとダメだ、と。アインシュタインは、ニュートンのことを徹底的に学習して、ニュートンが考えることはすべて分かるという状態にまでなった。そうやって初めて、ニュートンの分からないことが分かるようになったんです。

だから過去の人がやったことを決して馬鹿にしてはいけない。これまで先人が残した考えの上に乗っかって、初めて新しいことが生まれる。だから、徹底的に勉強しなきゃいけないと言われました。

第三は、少し意外だったんですが、自分が何か独創力のある凄い仕事をしたと思っていても、世の中が認めなければそのまま埋もれてしまうことになる。世に認められるためには、他の人とのネットワークをしっかり築いてよい関係をつくっておくことが大事ですと。

先生はその後、「私は独創力と縁のないことを言ってるように聞こえるかもしれないけれど、世の中の独創力はそうやってできてるんですよ」と話された。先生はまさしくそれを貫かれたと思うんですね。同時代の人がやっていることを真似るようなことは決してしないけれども、過去のことは非常によく勉強されていますよ。

糸川先生は、誰も考えなかったことを考えるのが大好きなんですよね。でもその基盤には、自分が正当に継がなきゃいけないものを物凄くしっかり勉強しているということがあるわけです。その上に立って、初めて独創力が生まれてくるんだなということは、先生を見ていてよく感じました。

◎1月9日
「嫌いな上司を好きになる方法」
林 成之(日本大学大学院総合科学研究科教授)


多くの人は「命懸けで頑張ります」と口で言いますが、命懸けで脳が働くシステムを使っていないのです。勝負の最中、前回のアテネオリンピックではこうだった、昨日コーチにこう注意されたなどと考えながら勝負をする。これは作戦を考えながら戦っているので命懸けの戦いにならないのです。

命懸けの戦いとは、過去の実績や栄光を排除し、いま、ここにいる自分の力がすべてと考え、あらゆる才能を駆使して勝負に集中する戦い方をいうのです。

これには「素直」でないとできません。素直でない人、理屈を言う人はあれこれ考え、その情報に引っ張り回されます。素直な人は、過去も未来もない、いまの自分でどう勝負するかに集中できるのです。

それと同時に、勝負を好きになること、コーチ・監督や仲間を好きになることです。だから北京オリンピックでは、競泳日本代表選手の皆さんに言ったんです。「皆さんのコーチ・監督は、神様が皆さんに遣わした人たちですよ」と。

私たち一人ひとりの人生の勝負は自分の才能をいかに引き出すかだと思います。だから、家族も、会社の社長や上司、学校の先生など、みんな神様が遣わしてくれた人だと思って好きになればいいのです。会社がつまらない、上司が嫌いだと言っていたら、本当は能力があっても、自分で自分の才能を閉じてしまうことになる。

ただ、人間ですから、どうしても合わない人や環境もあります。希望じゃない部署に配属になることもある。日常レベルでも、トラブルが起きたり、クレームがあったり、嫌なことを言われることもありますね。

その時は「競争相手は自分を高めるツールと思う」、あの考え方で、このひどい環境が、この経験が自分を磨くんだと思えばいいのです。

人間の脳は、海馬回だとか視床下部とか、それぞれが自分の機能を果たしながらも、連携をとりながら一つの脳として働いています。逆に一つだけが傑出していても、連携が取れていなければ脳としては働きが悪いわけです。

私たち人間もまた、自分の持ち場で精いっぱい役割を果たし、意見や立場の違いがあっても共に認め合って生きることが、結局は自己を生かす道だと思います。そのためにも、脳の仕組みを知らずに勝負に負けたり、自分はダメだと思ってしまったらもったいない。人生の勝負に勝つために、自分自身の能力を最大限に発揮していただきたいと思っています。

◎1月10日
「公私混同が組織を強くする」
平尾誠二(神戸製鋼ラグビー部ゼネラルマネージャー)

強いチームというのは、指示された通りに動くだけではなく、各々がイマジネーションというのを膨らませて、それぞれの状況に応じて何をすればいいかを考え出すチームです。これからは特にそういうことが求められてくると思いますね。

ルール作りも大事ですが、本当は一人ひとりのモラールが少し上がればチームはものすごくよくなるんです。決め事をたくさんつくるチームは、本当はあまりレベルの高いチームではないんですね。

僕はチームワークを高めるために、よく逆説的に「自分のためにやれ」と言うんです。結局それが一番チームのためになりますから。みんなに、「公私混同は大いにしなさい」とも言うんです。これは、一般的な意味での公私混同ではなく、公のことを自分のことのように真剣に考えるという意味です。

個人がチームのことを自分のことのように考えていなければ、チームはよくならない。これからのチーム論としてはそういうことが大事になってくると思うんです。

ラグビーでも、いいチームは一軍の選手から控えの人間まで非常に意識が高いですよ。試合に出ていない人間までが「俺はチームに何ができるか」ということをいつも一所懸命考えている。その原点は何かというと、やはり自発性にあるんですね。これをいかに高めるかということが重要です。これは自分の中から持ち上がってくる力ですから、命令形では高められない。

これをうまく引き出すことが、これからチームの指導者には必要になってきます。また、そういう組織がどんどん出てこない限り、新しい社会は生まれないと僕は思いますね。

1日1話…11

◎1月11日
「ソニー創業者・井深大のリーダーシップ論」
 宮端清次(はとバス元社長)

リーダーシップの勉強を始めようと私が思ったのは、三十年以上前のことです。都庁で管理職になった頃、現役を退いたソニーの井深大さんの講演を聴きに行ったんです。
そこで井深さんは一時間ほどリーダーシップの話をされましたが、私にはよく分からなかった。すると終了後に、ある女性が手を挙げて「失礼ですが、いまのお話はよく分かりませんでした。私のような主婦にでも分かるように話をしてくれませんか」と言ったんです。

司会者は大慌てでしたが、さすがは井深さんですね。ニコッと笑って、こんなお話をされました。

「ソニーの社長時代、最新鋭の設備を備えた厚木工場ができ、世界中から大勢の見学者が来られました。しかし一番の問題だったのが便所の落書きです。会社の恥だからと工場長にやめさせるよう指示を出し、工場長も徹底して通知を出した。それでも一向になくならない。そのうちに『落書きをするな』という落書きまで出て、私もしょうがないかなと諦めていた。

するとしばらくして工場長から電話があり落書きがなくなりました』と言うんです。『どうしたんだ?』と尋ねると、『実はパートで来てもらっている便所掃除のおばさんが、蒲鉾の板二、三枚に、〝落書きをしないでください ここは私の神聖な職場です〟と書いて便所に張ったんです。それでピタッとなくなりました』と言いました」

井深さんは続けて、「この落書きの件について、私も工場長もリーダーシップをとれなかった。パートのおばさんに負けました。その時に、リーダーシップとは上から下への指導力、統率力だと考えていましたが、誤りだと分かったんです。以来私はリーダーシップを〝影響力〟と言うようにしました」と言われたんです。

リーダーシップとは上から下への指導力、統率力が基本にある、それは否定しません。けれども自分を中心として、上司、部下、同僚、関係団体……その矢印の向きは常に上下左右なんです。

だから上司を動かせない人に部下を動かすことはできません。上司を動かせる人であって、初めて部下を動かすことができ、同僚や関係団体を動かせる人であって、初めて物事を動かすことができるんです。よきリーダーとはよきコミュニケーターであり、人を動かす影響力を持った人を言うのではないでしょうか。

リーダーシップとは時と場合によって様々に変化していく。固定的なものではありません。戦場においては時に中隊長よりも、下士官のほうが力を持つことがある。ヘッドシップとリーダーシップは別ものです。あの便所においてはパートのおばさんこそがリーダーだった。そうやって自分が望む方向へ、相手の態度なり行動なりが変容することによって初めてリーダーシップが成り立つのです。

◎1月12日
「本田宗一郎のデザイン論」
 岩倉信弥(多摩美術大学理事・教授、本田技研工業元常務)

本田宗一郎さんはいつもしつこいくらいに「いいものをつくるにはいいものを見ろ」。とおっしゃっていました。ある時、こんな苦い経験をしたことがあるんです。

「初代アコード」の四ドア版をつくっていた時のことでした。僕らのデザインチームは、四ドアを従来の三ドアの延長線上に考えて開発を進めていた。ところが本田さんは、「四ドアを買うお客さんの層は三ドアとは全然違うぞ」と言って憚らない。ボディは四角く、鍍金を付け、大きく高そうに見えるようにしろと言われるのです。

僕は内心、そんな高級車はよその会社に任せればいいと考えていました。ほんの気持ち程度の対応しか見せない僕らに、本田さんは「君たちはお客さんの気持ちが全然分かって
いない。自分の立場でしかものを見ていない」と日ごとに怒りを募つのらせてきます。

毎日よく似たやりとりが続き、我慢の限界を感じた僕は「私にはこれ以上できません。そんな高級な生活はしていませんから」と口にしていました。本田さんはそれを聞くなり「バカヤロー!」と声を荒らげ、「じゃあ聞くが、信長や秀吉の鎧兜や陣羽織りは一体誰がつくったんだ?」と言われたんです。

大名の鎧兜をつくったのは、地位も名もない一介の職人。等身大の商品しかつくれないのであれば、世の中に高級品など存在しなくなる。

自分の「想い」を高くすればできる。心底その人の気持ちになればできるんだ。つくり手は、その人が欲しいのはこういうものだということが分からなければダメなんです。想像する力ですね。像を想う。その人になり切る。それができなければよいデザインは生まれない、と教えてくださったんです。

僕が四十歳になった時「形は心なり」という言葉がふっと胸の中に浮かんできました。やはりいい心でものを考えないといい製品はできないし、形のいい製品はやはりいい心でできているんだなと思うようになりました。

◎1月13日
「“おかげさま”と“身から出たサビ”」
 山中伸弥(京都大学iPS細胞研究所所長)

私は子供の頃から病弱で、中学に上がった時も、ガリガリの体形でした。そんなんじゃダメだと父親に言われまして、柔道部に入ったんです。高校を卒業するまでの六年間、一所懸命に取り組みました。

柔道だけに限りませんけれども、普段の練習は実に単調なんですね。毎日二、三時間ほど練習しましたが、とにかく苦しいし、楽しくない。その上、柔道は試合が少ないんです。
野球やサッカーはしょっちゅう試合があるから、モチベーションを保ちやすいと思うんですけど、柔道の場合、三百六十五日のうち三百六十日は練習で、残りの五日が試合。試合に勝ち進めばまだいいですけど、負けたらまた半年間はひたすら練習をする。その単調さに負けない精神力、忍耐力はものすごく身につきました。

これはいまの仕事にも生かされています。研究こそまさに単調な毎日で、歓喜の上がる成果は一年に一回どころか、数年に一回しかありません。だから、柔道というスポーツを経験したことは非常によかったと思っています。

もう一つ、私にとって大きかったのは母親の教えです。高校二年生の時に二段になったのですが、その頃は怪我が多くて、しょっちゅう捻挫や骨折をしていました。ある時、教育実習に来られた柔道三段の大学生の方に稽古をつけてもらったことがありましてね。

投げられた時に、私は負けるのが悔しくて受け身をせずに手をついたんです。で、腕をボキッと折ってしまった。

その先生は実習に来たその日に生徒を骨折させたということで、とても慌てられたと思うんです。私が病院で治療を終えて帰宅すると、早速その先生から電話がかかってきて、母親が出ました。その時、「申し訳ないです」と謝る先生に対して、母親は何と言ったか。

「いや、悪いのはうちの息子です。息子がちゃんと受け身をしなかったから骨折したに違いないので、気にしないでください」と。当時は反抗期で、よく母親と喧嘩していたんですけど、その言葉を聞いて、我が親ながら立派だなと尊敬し直しました。

それ以来、何か悪いことが起こった時は「身から出たサビ」、つまり自分のせいだと考え、反対にいいことが起こった時は「おかげさま」と思う。この二つを私自身のモットーにしてきました。

上手くいくと自分が努力をしたからだとつい思ってしまうものですが、その割合って実は少ない。周りの人の支えや助けがあって初めて、物事は上手くいくんですね。

◎1月14日
「経営者の人間学とは修羅場を経験すること」
鬼塚喜八郎(アシックス社長)

大阪大学の外科部長の水野祥太郎博士は「運動力学で計算すると、人間の体重六十の人はじっとしていると、六十キロの体重がかかるが、走ると三倍の百八十キロの体重がかかってくるんや。それを二万何千回繰り返してみい。衝撃を与えるから過熱してやけどになるんだよ」と。「大体、二〇キロから三〇キロ走るとぼつぼつその現象が出てくる。そうすると、そこへリンパ液が集まってくるから、それがマメになるんや」と。

ぼくはこの原理を知りましてね、「さすが先生、あんた学者やなあ」と。「じゃ、マメのできない靴はどないして作ったらいいか」「それはお前が考えるこっちゃ」それで、ある日、タクシーに乗って工場に行く途中、パァーンとエンジンが爆発しましてね。自動車が止まっちゃった。

運転手が「すんません、お客さん、エンジンが爆発しましたから、他の車に乗ってください」「なんで爆発したんや」「いや、エンジンはラジエーターの水で冷やすんですが、今日は水を入れるのを忘れてしまったんです」

ぼくはそこでね、ああ、エンジンの過熱を水によって冷やすんか。じゃ、マラソンの靴も水によって冷やしたらええんやと思いついたわけです。それで水を入れてみたりしましたが、どうもマラソンには合わん。そのうちに、自動車の親戚のオートバイのエンジンは空冷式だということにヒントを得て、靴のつまさきや、両側に穴を空けたり、その他、ベロや靴底にも工夫を施ほどこしたんです。着地したら、中の空気を出す。地面を離れたら、冷たい空気が足の裏に入るという靴を作ったんです。空冷式のマラソンシューズで、これがパテントになりました。実際、これで走らせたら、マメができなかったんです。

これがやはり、バイオメカニクスの原理を応用した商品で、そうでないと、本当に新しいものは生まれてこない。だから、私どもは本社機能を持つ時には真っ先にバイオメカニクスの研究施設というものを入れたんです。

最近はそのバイオメカニクスの機能をもっと充実するために、スポーツ工学研究所というものを造ったんです。

まあ、昔から、経営者というものは生きるか死ぬかの闘病をやる、あるいは監獄に拘留される、あるいは倒産という、企業にとって全まったく悲劇的な経験を味わう。そういう生きるか死ぬかという修羅場をくぐっていかないと、ほんとの人間学は分からない。経営学とはすなわち人間学なんですね。

なぜか、人間のために行う経営ですからね。その経営者の人間学はそういう修羅場を経験していかないとなかなかできてこないといわれていますね。

◎1月15日
「あかあかと通る一本の道」
 齋藤茂太(精神科医)


『致知』の企画で坂村真民先生と対談することになりました。真民先生とお会いできるのは願ってもないことで、私は胸躍らせて先生のご自宅にお伺いしました。その時に感じたこと、学んだことを述べればどんなに紙幅を費やしても足りませんが、一つだけ記すと、真民先生が対談の最後のほうで言われたことが、いまでも胸に焼き付いているのです。

真民先生は毎晩唱えるお祈りの言葉がある、とおっしゃいました。それは大無量寿経の嘆仏偈の中の言葉です。「我行精進、忍終不悔」(わが行は精進して忍んで終に悔いじ)。

修行に完成はない。修行して修行して、この道をあくまでも歩み続ける。そのことに悔いなどあろうはずがない。それこそが生きるということなのだ。その決定心を毎晩刻み込んでいる真民先生の姿に粛然とするものがありました。

詩人になるために詩を書くのではない、自己を成熟させるために詩を書くのだ、とは常々真民先生のおっしゃっていることです。それは、先生の多くの詩で確かめることができます。

 存在

ざこは
ざこなり
大海を泳ぎ
われは
われなり
大地を歩く

真民先生の生きざまや詩を通して、私の胸に浮かんでくる一つの言葉があります。それは「愚直」です。良寛は自らを「大愚」と称しましたが、それに匹敵する、いな、それに優る大きさで、自己成熟を願って精進し続ける生き方が己の一本道と思い定め、脇目もふらずひたすら歩み続ける、こういう愚直さほど偉大で、光り輝くものはない、と思わずにはいられません。

私は真民先生の姿を通して、父茂吉の生き方に気づくことにもなりました。

あかあかと一本の道とほりたり
   たまきはる我が命なりけり

これは数ある父の歌の中で私が一番好きな一首ですが、これは父茂吉が医業や病院経営など煩はん雑ざつな生なり業わいがあろうと、自分はあかあかと通る一本の道、歌の道に生きるのだと思い定めた決定心の歌なのだ、と改めて思うのです。

そして父は思い定めた一本道を愚直に生き、命を輝かせることができたのだ、と思わずにはいられません。真民先生の己を極める愚直な生きざまはまぶしいほどに輝いています。父茂吉もまた、愚直に歌の道を貫いて重みのある輝きを備えることができました。私の生き方はそれに比べるべくもありません。

それでも精神科医三代目として医業に懸けた小さな歩みは私なりにささやかながら輝いていて、これでいいのだと、老いの身に勇気を授かるような気がしているのです。

丸善丸の内本店

▲丸善丸の内本店(東京都)

◎1月16日
「1%の明かりを見つけて努力する」
 山下俊彦(松下電器産業相談役)


私は人間には二つのタイプがあると思います。一つは非常に恵まれた環境にあって、我われから見たら、「何も言うことはない」という人が、案外に、不平を持っていたりすることがあります。そういう人は九十九%が恵まれていて、わずか一%、恵まれていない何かがあって、そこばかり、見ている人です。

松下幸之助さんなどは、もう九十九%悪いことばかりでも、わずか一%の明かりを見つけて努力するタイプです。そこがあの人の素晴らしいところだと思います。

ある時、こんなことを私に言ったことがあります。

あの人は、トヨタの石田退たい三ぞうさんと非常に仲がよかったのですが、ある時、「石田さんは気の毒や。自分は石田さんに比べて非常に恵まれた環境に育った」と言うのです。石田さんという人は、トヨタに入るのは遅かったかもしれませんが、病弱で幼少から丁稚奉公に出、兄弟も全部亡くなってしまった幸之助さんに比べると、はるかに順調な人生を送っています。

その石田さんのどこが気の毒で、自分は恵まれたというのかといいますと、「自分は二十三歳から電気業界に入って一筋に来た。石田君は、君な、何歳の時にトヨタに入って初めて自動車をやったんだ、気の毒や」と。そういう見方をする人でした。

どんな状況の中でも、少しでも明るいほうを見せようとする。だから、自分の苦労を苦労とちっとも思っていなかったのです。これは人の上に立つリーダーにとって、大事な資質だと思います。悪い点にこだわるのではなく、恵まれた点を伸ばしていくということです。この資質がまた、人の欠点ではなく、人の長所を見るという、あの人の特性につながっていったのだと思います。

私は、社長になった時に、「どんな会社にしたいか」と言われて、「働いても疲れが残らない会社にしたい」と答えました。同じ苦しい仕事をしても疲れが残る会社と残らない会社がある。仕事の大変さを理解してくれる上司がいてくれると、あまり、つらくならないものです。その点、幸之助さんは実によく、見てくれました。だから、あの人の下では、いくら厳しく言われても、部下は働きやすかったのじゃないかと思うのです。

◎1月17日
「渋沢栄一は三つの“魔”を持っていた」
 城山三郎(作家)

日本信販創設者の山田光成さんは断られても断られても百貨店に通い詰めて、とうとう何社かを説得して契約し、日本信販をスタートさせる。

口で言ってしまえば簡単です。だが、百貨店と契約するまでには筆舌に尽くし難い苦労があったはずです。いろいろなアイデアを抱く人はたくさんいます。だが、それを創業に持っていき、軌道に乗せられるかどうかの境目はここなんですね。多くはここを乗り越えられず、アイデアは単なるアイデアで終わってしまう。

その境目を乗り越えさせるものは、渋沢栄一の言う「魔」でしょうね。情熱と言ってもいいし狂気と言ってもいい。何かをやるなら「魔」と言われるくらいにやれ、「魔」と言われるくらいに繰り返せ、ということです。

渋沢栄一は埼玉の農家から出てきて一橋家に仕える。侍になりたいんですね。ところが、割り当てられたのは勝手番。これでは上の人と話し、認めてもらうチャンスがない。だが、上の人が毎朝乗馬の訓練をする。この時なら話すチャンスがあるということで、渋沢は馬と一緒に走って自分の思いや考えを上の人に話す。毎朝それをやる。すると、あいつは見どころがあるということで、そこから彼の人生は開けていく。

渋沢は三つの魔を持っていた。吸収魔、建白魔、結合魔です。

学んだもの、見聞したものをどんどん吸収し、身につけてやまない。物事を立案し、企画し、それを建白してやまない。人材を発掘し、人を結びつけてやまない。

普通にやるんじゃない。大いにやるのでもない。とことん徹底して、事が成るまでやめない。そういう「魔」としか言いようのない情熱、狂気。根本にそれがあるかないかが、創業者たり得るか否かの分水嶺でしょう。

◎1月18日
「すぐやる、必ずやる、出来るまでやる」
 永守重信(日本電産社長)


信じる通りになるのが人生であるということですね。僕はこの言葉を自分で色紙に書いて、目のつくところに置いています。自分でこうなりたいと思っていることもなれないのに、思わないことが実現するわけは絶対にないですから。だから信じる通りになるのが人生ということですな。

しかし世の中の人はみんな信じない。頭のいい人ほど先が見えるから信じませんね。できるわけがないと思ってしまう。だからむしろ鈍才のほうが教育しやすいですね。

創業間もない頃の日本電産は、私の家の一室で図面を引き、桂川の堤のそばにあった三十坪ほどの染め物工場の一階を借りて、旋盤とボール盤、プレス機を一台ずつ入れて仕事を始めたんです。

どこへ行っても仕事はもらえず、やっと受注できた仕事といえば過酷な注文がつくために他のメーカーのどこもやらないような仕事ばかり。技術者みんなに言うと絶対無理だと言う。そういう時はみんなを立たせて、いまから出来る出来ると百回言おうというわけです。

「出来ます。出来ます。出来ます……」
「どうや」と。
「いや出来ません」

今度は千回言う。そうすると不思議なことにだんだん出来る気分になってくるんです。そういう気分になったところで一気に始める。

すると、客先の要求する性能に及ばないまでもかなりレベルの高い製品が仕上がる。こうやって日本電産の技術力が蓄積されていったんです。

この時に「とても無理だ」「不可能だ」とあきらめていたら、日本電産はとっくに倒産していたと思います。社員によく言うんです。「物事を実現するか否いなかは、まずそれをやろうとした人が〝出来る〟と信じることから始まる。自ら〝出来る〟と信じた時にその仕事の半分は完了している」とね。

◎1月19日
「正しい決断と間違えた決断の共通項」
 松井道夫(松井証券社長)


もちろん私も、正しい決断ばかりしてきたわけではない。間違った決断も随分してきました。ある時それを整理してみると、正しい決断にも、間違えた決断にもそれぞれ共通項があることが分かりましてね。正しかった決断は、すべてマイナスの決断、捨てる決断です。そして、間違えた決断はすべからくプラスの決断、足し算の決断、捨てないで加える決断だったのです。

私は、どうしてかと自分なりに分析してみました。捨てる決断で何を捨てるかというと、全部過去に積み重ねてきたものです。それは、いろんな努力、苦労の集積だから、捨てることによる痛みが計算できる。

ところが、捨てて得られるものは、全部未来のことです。将来のことはやってみないと分からないから計算できない。計算できるものを捨てて計算できないものを得ようとするわけだから、反対されるんです。

私が証券セールスをやめると言った時も、口々に言われました。「社長、いままでこの営業体制をつくるのにどれだけ苦労したか分かりますか」と。そこで何を言ったって説得できない。それができるのは社長の思い込みしかないですよ。

ところが、加える決断はみんな納得するんですよ。捨てないから。決して加える決断がすべてダメだということではないのですが、順番としては、まず捨ててからでないと得られないと私は考えています。

禅の言葉に、「坐忘」という言葉があります。新しいものを取り入れるためには、まず古いものを捨てなければならないということです。まず古いものを捨てて場所を空けないと、新しいものは入らないのです。

だから、成功は失敗のもとになりがちなんです。成功している時は、捨てられないからどんどん保守的になって、それでダメになっていくのです。

逆に、失敗は成功のもとになる。もう失うものは何もない。だから新しいことを始めようという気持ちになって、場合によっては成功する。だから私は、時代が大きく変化する時こそ、まずは捨てろという「坐忘」の教えを考えるべきだと思うのです。

◎1月20日
「二十一世紀のあるべき経営者の心得」
 塚越 寛(伊那食品工業会長)

私は、単に経営上の数字がいいというだけでなく、会社を取り巻くすべての人が、日常会話の中で「いい会社だね」と言ってくださるような会社でありたいと願っています。いい会社のイメージというのは私たちの中でははっきりしています。それは例えば、社員が親切だとか、笑顔がいいとか、隣近所に迷惑をかけないとか、よく掃除をして周辺の環境をよくすることに貢献しているとか、これらはみんないい会社の特長としてあげられると思うのです。

残念ながら、そういうものを評価する仕組みがいまの株式市場にはありません。だから私は上場は考えないのです。利益も成長も、「いい会社だね」と言っていただけるような企業活動をした結果得られるものです。そのためには、まずリーダーである私が自分を律していかなければなりません。ここに「二十一世紀のあるべき経営者の心得」というのを掲げていますが、私は三十年以上も前からこうした視点で自分を省み、自分を律してきました。当初は「一九七〇年代の企業経営者心得」としてまとめたものを、幾度も書き換えながら、会社として、経営者として、本来あるべき姿を確かめ続けてきたのです。

「二十一世紀のあるべき経営者の心得」

一、 専門のほかに幅広く一般知識をもち、業界の情報は世界的視野で集めること。

二、 変化し得る者だけが生き残れるという自然界の法則は、企業経営にも通じることを知り、すべてにバランスをとりながら常に変革すること。

三、 永続することこそ企業の価値である。急成長をいましめ、研究開発に基づく種まきを常に行うこと。

四、 人間社会における企業の真の目的は、雇用機会を創ることにより、快適で豊かな社会をつくることであり、成長も利益もそのための手段であることを知ること。

五、 社員の士気を高めるため、社員の「幸」を常に考え、末広がりの人生を構築できるように、会社もまた常に末広がりの成長をするように努めること。

六、 売る立場、買う立場はビジネス社会において常に対等であるべきことを知り、仕入先を大切にし、継続的な取引に心がけること。

七、 ファンづくりこそ企業永続の基であり、敵をつくらないように留意すること。

八、 専門的知識は部下より劣ることはあっても、仕事に対する情熱は誰にも負けぬこと。

九、 文明は後戻りしない。文明の利器は他社より早くフルに活用すること。

十、 豊かで、快適で、幸せな社会をつくるため、トレンドに迷うことなく、いいまちづくりに参加し、郷土愛をもちつづけること。

三省堂書店有楽町店

▲三省堂有楽町店(東京都)

◎1月21日
「イチローの流儀」
 山本益博(料理評論家)

イチロー選手に初めて直接会ったのは、二〇〇四年にメジャー歴代シーズン最多安打記録を塗り替え、二百六十二安打という金字塔を打ち立てた、その翌年のこと。場をセッティングするにあたり、東京を代表する食べ物である天ぷらかお鮨すしを味わってもらいたいと思い、仲介の人を通じて尋ねると、驚くべき答えが返ってきた。

「天ぷらについてはよく知らないので、できればお鮨にしてください」。なかなか出てくる言葉ではない。普通だと「お鮨が好きだから」と言うはずだ。当日、「すきやばし次郎」で食事をしたのだが、食べ終わった時、店主の小野二郎さんに言ったひと言も圧巻だった。「次は、僕一人で来てもいいですか」。これもやはり「おいしかったのでまた食べに来ます」と言うのが一般的だろう。実に謙虚な人であり、人として尊敬できると感じた。

食事の後に行ったインタビューで私は開口一番、こう質問した。「ヒットで出塁すると右肘ひじのサポーターをベースコーチャーに渡した後、ヘルメットの耳当ての穴にバッティンググローブをしたままの右手人差し指を入れますけど、あれはどういう意味なんですか」

すると、彼は最初、「そんなことするかな」と言った後、「緩いヘルメットを被かぶっているから、直しているんだと思います」と答えた。

すかさず「いいえ、フォアボールの時にはやりません。ヒットで出塁した時にやります」と返すと、しばらく考え込んで、「ああ、リセット」と言った。「僕はクリーンヒットでもボテボテの内野安打でも嬉しくて顔に出ちゃう。でも笑ってなんかいられない。一瞬のうちに気持ちを切り替えて次の局面に向かうために無意識にやっていたんでしょう」

本人も気がついていなかった点に着眼したその質問が受けたのだろう。「もっと聞きたいことがあるので、改めてお時間をいただけませんか」との打診に「いいですよ」と言ってくれたばかりか、普段は単独インタビュー
を断っているにも拘わらず、一時間半以上に及んで私の単独インタビューに応じてくれたのである。

その時のインタビューで最も心に残っているのは、目標設定に関する次の言葉だ。「目標は高く持たないといけないんですけど、あまりにも高過ぎると挫折してしまう。だから、小さくとも自分で設定した目標を一つひとつクリアして満足する。それを積み重ねていけば、いつかは夢のような境地に辿り着く」

別のインタビュー記事でもこう表現している。「小さなことを重ねることがとんでもないところへ行く唯一つの道」いまの自分とかけ離れた目標ではなく、努力すれば手の届く小さな目標を設定し、その目標をやり切り、自分との約束を守る。そうして満足感や達成感を積み重ねていくことが大事。この積み重ねるというのは、情熱を持ち続けていないとできないことだろう。

◎1月22日
「負けず嫌いにもレベルがある」
 張 栩(囲碁棋士)

持ち時間は対局によって異なりますが、午前十時に始まった対局が午後十一時過ぎに終わることもあります。その間、頭は常にフル回転ですから、心身共にへとへとに疲れます。一度の対局で二~三キロ体重が減ってしまう棋士もいるくらいです。「そんなに長い間、集中できるの?」と思われるかもしれませんが、途中で眠気を催したり、気を抜いたりしては命取りですから、普段から「脳の体力」を鍛えることは意識し続けてきました。

例えば、若い頃は日本棋院での対局を終えて家に帰ってきた後、疲労困憊の状態で、さらにインターネットでまだ打っていました。疲労し切った脳をさらにギリギリに絞る。そんなイメージでしょうか。いまでも、疲れて寝る前に布団の中でその日打った碁を頭の中で再現してみます。それも超高速で。スポーツでも何でもそうだと思いますが、普段できないことは本番でもできません。集中力についても同じだと思います。いざ対局の時に絞り出そうとしても、いきなりはできない。普段から疲れた脳に最後のひと仕事をさせる訓練をしておくべきだと思います。

もっとも、僕はそれを「努力」とは思っていないんですね。囲碁が好きだから、全く苦痛ではない。囲碁が好きなことは棋士である以上、とても大切な資質だと思いますね。好きじゃないとすべてが苦しくなってきます。その他、プロ棋士に共通する資質として、やっぱり勝負に対する執念はものすごいですよね。簡単にいえば「負けず嫌い」。なんだ、当たり前だと思われるかもしれませんが、僕は「負けず嫌い」にも段階があると思っています。

まずは「その場だけの負けず嫌い」。勝負の世界に限らず、負けるのが好きという人はそうそういませんから、やはりやるからには当然勝利を目指すわけです。しかし、それがその場限りのものであっては「負けず嫌い」とはいえないと思うんですね。自分が勝ちたい、もっと上手くなりたいと思ったら、練習を積んだり体調を整えたり準備をするはず。これが次の段階です。趣味で取り組んでいるものであれば、正しい努力と準備を行っていけば、相当のレベルにまで到達すると思います。

しかし、「真の負けず嫌い」はさらにもう一段階上じゃないかなと。それは「自分の人生のすべてを賭けて」という部分が加わってくると思うんです。一道を極めている人は必ずどこかの時期でこの経験をしていると思います。囲碁のように白黒はっきりつく勝負の世界に限らず、事業家でも芸術家でも、どこかで人生を賭けた大一番の勝負をしているはずです。一度は寝食を忘れすべてを注ぎ込む時期を経ない限り、道はひらけていかないと思います。

◎1月23日
「一度は死に物狂いで物事に打ち込んでみる」
 安藤忠雄(建築家)

中学二年の時に平屋の自宅を二階建てに改築することになりましてね。近所の若い大工さんがお昼休みも取らずに、パンを齧かじりながら一心不乱に働いている姿を見て、すごいなと。この人は真剣に生きてる、仕事に誇りを持って働いてる、自分も建築の道に進みたいと思ったんです。

もう一つ、杉本先生の存在も大きかったですね。杉本先生は中学の数学の先生で、まさに熱血教師でした。杉本先生がいつも全力で熱心に教えてくれたことで、勉強嫌いだった私も数学だけは理解できたんです。職人の仕事と数学への興味が重なるところに建築の世界があった。ですから、若い大工さんと杉本先生に出逢ったことが原点ですね。

家が貧しかったから、早く稼いで祖母を楽にしてあげたいと思ってました。高校生の時に双子の弟がプロボクサーになったこともあって、ボクシングジムを見学したら、当時サラリーマンの給料が一万円の時代に、四回戦のファイトマネーが四千円なんですよ。えっ、喧嘩してお金くれるの? こりゃええなと。 一か月くらい練習してプロになったんですけど、後に世界チャンピオンとなるファイティング原田が練習に来た時に、圧倒的なレベルの差を実感しました。才能というのはあるんですね。それでさっさとやめました。

経済的な事情と学力の両方の理由から大学には行けず、建築の専門教育も受けられなかった。ならば自分で勉強しようと。十九歳の時に、建築学科の学生が四年間かけて学ぶ専門書を一年で全部読もうと決心し、毎朝九時から翌日の朝四時まで机に向かいました。睡眠時間は四時間。四月一日から翌年の三月三十一日まで、ほとんど外出もせず、無我夢中で勉強したんです。「おまえは学校へ行ってない。ハンディキャップがある。でも、ハンディキャップは意外といい。頑張るから」と祖母が言ってましたけど、いま振り返るとその通りだと思います。

その後、昼はアルバイトをし、夜は通信教育で建築やデッサン、グラフィックデザインなどを手当たり次第に学び、休みの日は奈良や京都へ行って、東大寺や法隆寺といった壮大なものから茶室のような小さなものまで、ありとあらゆる伝統的な建築を見て回る生活を送りました。二級建築士と一級建築士の資格を取る時も、いずれも一発で合格しようと覚悟を定め、仕事の仲間と昼食に行く時間も惜しんで、パンを二つ食べながら一人黙々と建築の専門書を読んでました。

「安藤は頭がおかしくなったんか」と冷たい視線を向けられたりもしましたが、おかげで両方とも一発で合格することができたんです。若い頃に、一度は死に物狂いで物事に打ち込んでみることが必要です。目標を定めたら何が何でも達成するんだという意志を持たないと。独学であっても強い覚悟と実行さえあれば道は開ける。これは私の実感であり、体験を通して掴んだ一つの法則です。

◎1月24日
「人ではなく、時計と競争する―人間国宝の仕事術
 大場松魚(漆芸家)

実家は塗師の家柄で、私は三代目に当たります。家ではたくさんの職人が仕事をしとるから、そこへ行ってぽかーんと立っていたって勉強になる。だから誰に習うということはないんです。もう母親の腹の中にいた時から漆をやることになってしまっとる。

そのままいけば朝から晩まで仕事をして、月給を取れる職人になれた。一門の兄弟子たちは皆、そういう仕事をしている。でも私の場合はそういう職人になりたくない。展覧会に出品する作家になりたいんだと、初めから考え方が違った。だから石川県の工業学校に入る時も、漆工科ではなく、図案絵画科を選んだ。仕事は家でいくらでも習えますから。 

そして工業学校を卒業後、十年間、親父の後ろで、その背中を見ながら夜遅くまで仕事をしました。毎朝起きると、朝食をかき込んで仕事場を掃除し、七時にはぴしゃっと仕事に取り掛かる。そして正午までの五時間、息もつかずに仕事をします。三十分で食事を済ませたら、夕方六時までの五時間半、またぶっ続けで仕事。そこで三十分間の夕飯を取り、夜十時まで、毎日十四時間仕事をしました。休みは月に二回だけ。文字通り、仕事、仕事です。

漆の仕事なんて、月給を取って朝八時から夕方五時まで働くなんていうもんではないですよ。そんなことを言う者にろくな奴はおらん。そんなことじゃ職人には、仕事師にはなれないですよ。我われの仕事には、朝も夜も昼も夜中もないんです。朝から晩までずっと漆から離れられない。仕事をするにあたっては、人間なんてもの、相手にしていたってしょうがない。皆、疲れてくると決まって能率が下がる。それですぐ、負ぁけた、やめたと言って投げ出しちゃう。人間のように頼りないものはないですよ。

だから私は時計と競争する。夜も夜中もあったものじゃない。例えば一つの品物を作るのに、この一面はさっき一分で塗れた。じゃあ次は五十五秒で塗る。それも同じように、きれいにきちんと仕上げる。だからトイレに立てば立った分だけ、時計は先に進んで仕事は何もできない。といって、垂れ流しにするわけにもいかんし。忙しい時はたとえ十秒でも五秒でも無駄にはできん。時計と競争してこいつを負かすことはなかなかできませんけどね、時々は勝つようなことがありますよ。何時までにこの仕事をするんだと決めて、それよりも早くできることがあるから。

なぜ負けないか。人間には「頭」があるからです。時計はチッ、チッ、チッ、チッ、と一定のリズムで時を刻む。しかし人間は、この仕事をこの時間までに仕上げるんだと腹を決めれば、グッと時間を短縮することができ
る。だから仕事を早くしようと思えば、目標時間を決め、それに対して集中攻撃を掛けることです。そうすれば一分早くなるか、五分早くなるか、いくらかでも早くなるんです。敵に勝つんですよ。そうやって時計に逆ねじを食らわせるような意気込みで仕事に向かうことが大切です。

◎1月25日
「奇跡を起こす方程式」
 佐渡 裕(指揮者)

プロの指揮者になってもう三十年が経つわけですが、これまでたくさん失敗もしましたし、不完全燃焼に終わることもありました。僕のプロフィールにはいっぱい成功した経歴が書いてあるかもしれません。ただやっぱり、その何十倍も失敗し、悔しい思いを味わってきたので、そういう経験から得たものが大きいのかなと思うんです。

いまでもヨーロッパで列車に乗ると、トラウマ感情みたいなものが湧いてくるんです。若い頃はお金がありませんから、飛行機ではなく夜行列車で移動していました。成功して意気揚々と帰ってくることもあれば、失敗し
た悔しさのあまり、疲れているにも拘かかわらず、全然寝られずに一晩中過ごしたこともある。でも、成功している自分も失敗している自分も含めて、子供の時から憧れていた指揮者になっていること自体が本当にありがたい話なので。悔しい時ほど「ありがとう」という言葉が自分を元気にしてくれるし、次に向かう原動力になると思うんです。

僕自身、指揮者という仕事に就けたことはとても幸せであり、天職だと思っています。この天職に出逢えるというのはすごく重要なことで、僕は無宗教なのですが、神様が自分に与えてくれた職業に対して、喜びを持っ
て迎える。それに出逢えるかどうかは、その人の人生を大きく左右するんじゃないかなと。僕は両親の存在、育った環境、恩師との出逢い、そういう運や縁が偶然にも繋がって、小学生の時に描いた夢が実現しているわけですから、非常に幸運な人間の一人なのかもしれません。

音楽の世界では、才能や運っていうのは確かに一つの大きな要素かなと思います。ただ、これは僕の大好きなプロゴルファーの言葉なのですが、「奇跡を起こす方程式」が存在すると。才能、運、努力。これらは足し算だが、掛け算になるものが一つだけある。それは感謝力だと

例えば何でこんな大事な演奏会の日に雨が降るんだとか、何でこんな音響の悪いホールで本番をやらなきゃいけないんだと思ったら、感謝力は〇・七になってしまい、せっかくそれまで足してきた才能も運も努力も全部マイナスになる。でも、奇跡を起こせる人間は、失敗した時にこそ、「ありがたい」と感謝できるんです。

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▲思いを込めた書店用POPとパネル

◎1月26日
「プロは絶対ミスをしてはいけない」
 王 貞治(福岡ソフトバンクホークス球団会長)

ホームランを打ち始めた頃、「王シフト」という守備態勢を敷かれたこともありました。打席に入ると、相手チームの野手が六人も右半分に寄っていたのには驚きましたね。けれども僕は、率を打つことが目標ではなかっ
たですからね。来た球を強く打って、なおかつスタンドに入れることが自分本来の打ち方だと思っていましたから。

何人守っていようが、真芯で打てば野手の間を抜ける、角度がつけばスタンドへ行く、ということで、シフトを敷かれたことはあまり問題ではありませんでしたね。むしろあのシフトは、何があっても自分がよりよい打球
を打てばいいんだと、もう一段階、僕の気持ちを高めさせてくれました。

僕の現役時代には、一球一球が文字通りの真剣勝負で、絶対にミスは許されない、と思いながら打席に立っていました。よく「人間だからミスはするもんだよ」と言う人がいますが、初めからそう思ってやる人は、必ずミスをするんです。基本的にプロというのは、ミスをしてはいけないんですよ。プロは自分のことを、人間だなんて思っちゃいけないんです。百回やっても、千回やっても絶対俺はちゃんとできる、という強い気持ちを持って臨んで、初めてプロと言えるんです。

相手もこちらを打ち取ろうとしているわけですから、最終的に悪い結果が出ることはあります。でも、やる前からそれを受け入れちゃダメだということですよね。

真剣で斬り合いの勝負をしていた昔の武士が「時にはミスもある」なんて思っていたら、自らの命に関わってしまう。だから彼らは、絶対にそういう思いは持っていなかったはずです。時代は違えど、命懸けの勝負をしているかどうかですよ。



◎1月27日
「10・10・10の法則」
 藤居 寛(帝国ホテル顧問)


帝国ホテルのサービスの教訓としている算式がありましてね。
それが「10・10・10」というものです。ホテルでは、ドアボーイがお客様をお迎えして、それぞれの持ち場が連携しておもてなしして、最後にまたドアボーイがお送りするわけですけれども、そのうちのどこか一つでもミスがあれば、他でどんなに素晴らしいサービスをしてもすべて台無しになってしまいます。ですからたった一つのことでも気を抜いてはいけない。

一つマイナスがあれば答えは九十九ではない、〇だというのが「10・10・10」なんです。同じことを「10・10・10の法則」というふうにも言っています。

信用、すなわちブランドを構築するには十年かかる。しかし、そのブランドを失うのはたった十秒なのです。そして失った信用、ブランドを盛り返すにはまた十年かかるということです。

長い時間をかけてつくり上げたブランドも、たった十秒で崩れます。ですから、一瞬一瞬のお客様との出会いを本当に大事にしなければいけないのです。お客様にご満足いただけると、「さすが帝国ホテル」と褒めていただけるのですが、たった一つ間違えると、「帝国ホテルともあろうものが」という評価になります。中間の「まあまあ」という評価がないのが当社の宿命なのです。ですから「10・10・10」や、ブランドは十秒で崩れるという訓戒を心に深く刻んで、「さすが帝国ホテル」と言われるように頑張ろうと声を掛けています。

具体的には「さすが帝国ホテル推進運動」という活動を行っておりまして、ホテル運営をしていく上で大事なオペレーション面、ソフト面、ヒューマン教育などについて常時協議を重ねています。また、特に「帝国ホテル
らしい」行いをしたスタッフや部門に対して、社内表彰も行っています。
しかし、人間のやることというのは理想どおりには絶対にいきません。必ずミスもあります。

その時には、「お詫びとお礼は一秒でも早く」というのが鉄則です。原因をキチッと究明して、そのお客様が札幌でも沖縄でも、飛んでいってお詫びします。これをやらなければ駄目ですね。


◎1月28日
「世界一の監督になれたバックボーン」
 松平康隆(全日本バレーボール協会名誉会長)


父は小さいながらも事業を営んでいましたが、父にもしものことがあれば、目の見えない自分と小さな息子が路頭に迷ってしまう。あの頃は社会保障なんてない時代でしたから、物乞いになるか、死ぬかどちらかしかないわけです。そこで一念発起した母は、女性が仕事を持つことが考えられない時代に骨瓶を焼く会社を設立したんです。鹿児島の女性でしたし、強い女性だったことは確かです。また、なんとしても生きていかなければという気概がそうさせたのでしょう。

その母が私に繰り返し教えたことが三つありまして、まず一つが、「負けてたまるかと静かに自分に言いなさい」。簡単に言えば克己心ですよね。人間はどんなに強そうに見える人にも弱い部分がある。その弱さとはナヨ
ナヨしているということよりも、怠惰であったり、妥協でしたり、みんな己に対する甘さを持っているわけです。だから常に自分白身を叱咤激励し、己に打ち克つことが人生では大切なことだと、そういう実感が障害と共に生きた母にはあったのでしょう。この「負けてたまるか」は、監督になって世界一を目指す私にとって一番大切な言葉であり教えとなりました。

昔の人でしたから、母はとにかく「男とは」「男とは」といつも私に言っていましたが、二つ目の教えは、「男は語尾をはっきりしろ」です。母は目が見えませんでしたから、言葉ではっきり伝えるということが実生活でも非常に大切なことでした。そして結局これが、男としての出処進退に繋がっていくんですね。

欲しいのか、欲しくないのか。するのか、しないのかをはっきりと宣言する。そして男は一度口にしたら絶対にブレてはいけないと。チームを率いる監督も、二言があったら選手は絶対についてきません。もちろん試合の作戦なんかは状況に応じてどんどん変えていくわけですが、チームの目指すべき方向性や指導方針などにブレがあったら絶対にダメです。

それから三つ目の教えは、言ってみれば、「卑怯なことをするな」ということ。具体的に言うと、私はおふくろが目の見えないことを利用して騙したことがあったんです。

「康隆! おまえは目明きだ。目が見える者が見えない者の弱みにつけ込んで騙すとは、男として、人間として最低だ! 男は卑怯なことをするな!」これには参りました。自分としては全然悪気のない嘘だったのですが、確かに目の見えない母を騙していたんだなと思って、金輪際、人の弱みにつけ込むような卑怯なことはしまいと心に誓いました。後にスポーツの道に進んでも「卑怯なことをして勝つことは絶対にしない」と決めていたし、それは選手にも幾度となく言ってきたことです。だから、私が世界一の監督になれたバックボーンは、盲目の母の三つの教えによってつくられたといっていいでしょう。

◎1月29日
「努力の上の辛抱という棒を立てろ」
 桂 小金治(タレント)

十歳の頃、僕にとって忘れられない出来事があります。ある日、友達の家に行ったらハーモニカがあって、吹いてみたらすごく上手に演奏できたんです。無理だと知りつつも、家に帰ってハーモニカを買ってくれと親父にせがんでみた。

すると親父は、「いい音ならこれで出せ」と神棚の榊の葉を一枚取って、それで「ふるさと」を吹いたんです。あまりの音色のよさに僕は思わず聞き惚れてしまった。もちろん、親父は吹き方など教えてはくれません。「俺にできておまえにできないわけがない」そう言われて学校の行き帰り、葉っぱをむしっては一人で草笛を練習しました。だけど、どんなに頑張ってみても一向に音は出ない。諦めて数日でやめてしまいました。

これを知った親父がある日、「おまえ悔しくないのか。俺は吹けるがおま
えは吹けない。おまえは俺に負けたんだぞ」と僕を一喝しました。続けて、「一念発起は誰でもする。実行、努力までならみんなする。そこでやめたらドングリの背比べで終わりなんだ。一歩抜きん出るには努力の上の辛抱という棒を立てるんだよ。この棒に花が咲くんだ」と。

その言葉に触発されて僕は来る日も来る日も練習を続けました。そうやって何とかメロディーが奏でられるようになったんです。草笛が吹けるようになった日、さっそく親父の前で披露しました。得意満面の僕を見て親父は言いました。「偉そうな顔するなよ。何か一つのことができるようになった時、自分一人の手柄と思うな。世間の皆様のお力添えと感謝しなさい。錐きりだってそうじゃないか。片手で錐は揉めぬ」

努力することに加えて、人様への感謝の気持ちが生きていく上でどれだけ大切かということを、この時、親父に気づかせてもらったんです。翌朝、目を覚ましたら枕元に新聞紙に包んだ細長いものがある。開けてみたらハーモニカでした。喜び勇んで親父のところに駆けつけると、「努力の上の辛抱を立てたんだろう。花が咲くのは当たりめえだよ」子ども心にこんなに嬉しい言葉はありません。

あまりに嬉しいものだから、お袋にも話したんです。するとお袋は、「ハーモニカは三日も前に買ってあったんだよ。お父ちゃんが言っていた。あの子はきっと草笛が吹けるようになるからってね」僕の目から大粒の涙が流れ落ちました。いまでもこの時の心の震えるような感動は、色あせることなく心に鮮明に焼きついています。

◎1月30日
「教員の仕事は教壇に立って教えることだ」
 坂田道信(ハガキ道伝道者)

徳永康起先生は熊本県の歴史始まって以来、初めて三十代の若さで小学校の校長になられた方でしたが、初めて「教員の仕事は教壇に立って教えることだ」と五年で校長を降り、自ら志願して一教員に戻った人でした。だからどの学校に行っても校長に煙けむたがられたと思われますね、自分より実力が上なものだから。

それで二年ごとに学校を出されてしまうんだけど、行く先々で教師たちが一番敬遠している難しいクラスを受け持って、みんなを勉強好きに変えてしまうんです。授業の前に児童たちが職員室へ迎えに来て、騎馬戦みたいに先生を担いで、「ワッショイ、ワッショイ」と教室に連れていったというんです。先生、早く教えてくれって。
 
先生は昼飯を食べない人でした。なぜ食べないかというと、終戦直後、昼の時間になると弁当を持ってこられない子どもたちがさーっと教室からいなくなる。それでひょっと校庭を見たら、その子たちが遊んでいたんです。その時から自分もピタッと昼飯を食べるのをやめて、その子たちと楽しい遊びをして過ごすようになりました。以来、昼飯はずっと食べない人生を送るんですよ、晩年になっても。

これは戦前の話ですが、「明日は工作で切り出しナイフを使うから持っておいで」と言って児童たちを帰したら、次の日の朝、「先生、昨日買ったばかりのナイフがなくなりました」という子が現れました。先生はどの子が盗ったか分かるんですね。それで全員外に出して遊ばせているうちに、
盗ったと思われる子どもの机を見たら、やっぱり持ち主の名前を削り取って布に包んで入っていた。先生はすぐに学校の裏の文房具店に走って、同じナイフを買い、盗られた子の机の中に入れておきました。

子どもたちが教室に帰ってきた時、「おい、もう一度ナイフをよく探してごらん」と言うと、「先生、ありました」と。そして「むやみに人を疑うものじゃないぞ」と言うんです。その子は黙って涙を流して先生を見ていたといいます。
 
それから時代が流れ、戦時中です。特攻隊が出陣する時、みんなお父さん、お母さんに書くのに、たった一通徳永先生宛ての遺書があった。もちろんナイフを盗った子です。「先生、ありがとうございました。あのナイ
フ事件以来、徳永先生のような人生を送りたいと思うようになりました。明日はお国のために飛び立ってきます……」という書き出しで始まる遺書を残すんです。

◎1月31日
「自分を育てるための三つのアプローチ」
 今野華都子(タラサ志摩スパ&リゾート社長)

洗顔教室では、何も特別な技術を教えているわけではないんですよ。汚れを落として顔を洗う。そういうとてもシンプルなことです。ただ、いまはお化粧品が発達して、昔は汗で落ちたものが、普通に洗っただけでは落ち
なくなっています。しかしだからといって、洗い過ぎては皮膚本来が持っている保湿バランスを崩してしまいます。丁寧にお化粧や汚れを落としながら、健康な皮膚のバランスを壊さないように洗わないといけません。そうした毎日の小さな習慣が、いまの自分のお肌の状況をつくり出しているのです。

そうして肌に化粧水やら保湿液やらを塗って補おうとしていますが、それはかえって皮膚本来の機能を衰えさせます。そしてずっと塗り続けないと健康な状態にならないという悪循環が起こる。その点に気をつけた洗い
方に変えると、数か月のうちに肌は健康な状態に戻っていきます。

ただ、中身が伴っての自分ですから、単に外面だけが「きれい」になっても幸せじゃないんですね。自分の幸せは、他の人の幸せにも繋がってこそのものだと思うのです。周囲の人と上手くやっていかないと「こんなに努
力しているのに理解してもらえない」という悩みに繋がりますよね。いくら外見が「きれい」になっても、心が満たされていないと幸せじゃないですからね。私は日々の洗顔を通して、自分というものを意識して育てていってほしいと思い、例えば、自分を育てるための三つのアプローチなども
教えます。

まずは笑顔、次に「ハイ」と肯定的な返事ができること、人の話を頷きながら聞くということ。最低限この三つができているかどうかで人生が大きく違ってきます。

例えば、仕事の場面でいうと、自分がまだやったことのない仕事を頼まれた時、あるいは違う部署に配属になった時、「それは私にはできません」とか「自信がありません」と言ってしまう。しかし私たちは新入社員の頃は、ほとんどすべてが初めての経験で、自分がやれるかうかなど分からないのに、素直に「ハイ」と言っていました。そうして仕事を受け入れて
きたからこそ、自分の能力をひらくことができた。

だから仕事を頼まれた時は笑顔で「ハイ」と受け入れてやってみる。教えてくれる人の話を頷きながら聞く。それが自分を育てていく道だと思います。「できません」「やれません」と言ったら、すべての可能性の扉が閉まります。結局、いつも自然に身についていることしか表面に出ないんです。

「きれい」を育てるのも同じで、毎日の仕事の中でそういうことを身につけていきながら、目の前のことで自分の可能性をひらいていくんです。
きれいになった自分をどう生かすかが大切で、こういう基本的なことが身について初めて、自分を生かしていける段階になっていきます。

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目次
1/1 稲盛和夫(京セラ名誉会長)
1/2 吉良節子(土光敏夫元秘書)
1/3 道場六三郎(銀座ろくさん亭主人)
1/4 上田惇生(ものつくり大学教授)
1/5 渡部昇一(上智大学名誉教授)
1/6 小田真弓(和倉温泉 加賀屋女将)
1/7 佐藤可士和(クリエイティブディレクター)
1/8 的川泰宣(宇宙航空研究開発機構〈JAXA)名誉教授・技術参与)
1/9 林 成之(日本大学大学院総合科学研究科教授)
1/10 平尾誠二(神戸製鋼ラグビー部ゼネラルマネージャー)
1/11 宮端清次(はとバス元社長)
1/12 岩倉信弥(多摩美術大学理事・教授、本田技研工業元常務)
1/13 山中伸弥(京都大学iPS細胞研究所所長)
1/14 鬼塚喜八郎(アシックス社長)
1/15 齋藤茂太(精神科医)
1/16 山下俊彦(松下電器産業相談役)
1/17 城山三郎(作家)
1/18 永守重信(日本電産社長)
1/19 松井道夫(松井証券社長)
1/20 塚越 寛(伊那食品工業会長)
1/21 山本益博(料理評論家)
1/22 張 栩(囲碁棋士)
1/23 安藤忠雄(建築家)
1/24 大場松魚(漆芸家)
1/25 佐渡 裕(指揮者)
1/26 王貞治(福岡ソフトバンクホークス球団会長)
1/27 藤居 寛(帝国ホテル顧問)
1/28 松平康隆(全日本バレーボール協会名誉会長)
1/29 桂 小金治(タレント)
1/30 坂田道信(ハガキ道伝道者)
1/31 今野華都子(タラサ志摩スパ&リゾート社長)

2/1 日野原重明(聖路加国際病院理事長)
2/2 西端春枝(大谷派淨信寺副住職)
2/3 山下智茂(星稜高等学校副校長・野球部監督)
2/4 藤沢秀行(囲碁九段・名誉棋聖)
2/5 大畑誠也(九州ルーテル学院大学客員教授)
2/6 木下晴弘(アビリティトレーニング社長)
2/7 柏木哲夫(金城学院大学学長)
2/8 川上哲治(元巨人軍監督)
2/9 越智直正(タビオ会長)
2/10 伊藤謙介(京セラ元会長)
2/11 中井政嗣(千房社長)
2/12 坂村真民(仏教詩人)
2/13 西村 滋(作家)
2/14 石川 洋(托鉢者)
2/15 夏井いつき(俳人)
2/16 白川 静(立命館大学名誉教授)
2/17 杉山芙沙子(一般社団法人次世代SMILE協会代表理事)
2/18 張 富士夫(トヨタ自動車相談役)
2/19 浅見帆帆子(作家・エッセイスト)
2/20 安田 弘(安田不動産顧問)
2/21 吉田栄勝(一志ジュニアレスリング教室代表)
2/22 コシノジュンコ(デザイナー)
2/23 上甲 晃(志ネットワーク﹁青年塾﹂代表)
2/24 藤木相元(嘉祥流観相学会導主)
2/25 福島孝徳(デューク大学教授)
2/26 黒岩 功(ル・クログループオーナーシェフ)
2/27 松崎一葉(筑波大学大学院人間総合科学研究科教授)
2/28 和田裕美(HIROWA代表取締役)

3/1 中田久美(バレーボール女子日本代表監督)
3/2 横田尚哉(ファンクショナル・アプローチ研究所社長)
3/3 一龍斎貞水(講談師)
3/4 小川三夫(鵤工舎舎主)
3/5 小野二郎(すきやばし次郎主人)
3/6 柳井 正(ファーストリテイリング会長兼社長)
3/7 三浦雄一郎(冒険家)
3/8 陳 昌鉉(バイオリン製作者)
3/9 曻地三郎(しいのみ学園園長)
3/10 森岡 毅(ユー・エス・ジェイ元CMO、刀代表取締役CEO)
3/11 浜田和幸(国際未来科学研究所代表)
3/12 国分秀男(東北福祉大学特任教授・元古川商業高等学校女子バレーボール部監督)
3/13 米長邦雄(日本将棋連盟会長・永世棋聖)
3/14 山口良治(京都市スポーツ政策監)
3/15 志村ふくみ(染織作家・人間国宝)
3/16 奥野 博(オークスグループ会長)
3/17 鍵山秀三郎(日本を美しくする会相談役)
3/18 高見澤潤子(劇作家)
3/19 原田隆史(大阪市立松虫中学校教諭)
3/20 鎌田 實(諏訪中央病院名誉院長)
3/21 三浦綾子(作家)
3/22 中村富子
3/23 森村武雄(森村設計会長)
3/24 北里一郎(学校法人 北里研究所顧問)
3/25 福島令子(﹁指点字﹂考案者)
3/26 玉置辰次(半兵衛麩第十一代当主・会長)
3/27 青田暁知(大聖寺住職)
3/28 ひろはまかずとし(言の葉墨彩画家)
3/29 我喜屋優(興南高等学校硬式野球部監督)
3/30 福島 智(東京大学先端科学技術センター教授)
3/31 出町 譲(作家・ジャーナリスト〈テレビ朝日勤務〉)

4/1 太田 誠(駒澤大学野球部元監督)
4/2 あまんきみこ(童話作家)
4/3 横田英毅(ネッツトヨタ南国社長)
4/4 加賀田 晃(加賀田式セールス学校講師)
4/5 田中文男(大工棟梁)
4/6 宮脇 昭(横浜国立大学名誉教授・国際生態学センター研究所長)
4/7 田中繁男(実践人の家副理事長)
4/8 平澤 興(京都大学元総長)
4/9 熊井英水(近畿大学名誉教授)
4/10 佐々淳行(初代内閣安全保障室長)
4/11 佐々木 洋(花巻東高等学校硬式野球部監督)
4/12 高橋 恵(サニーサイドアップ創業者・おせっかい協会代表理事)
4/13 中村四郎兵衞(扇四呉服店九代目当主)
4/14 中桐万里子(リレイト代表・二宮尊徳七代目子孫)
4/15 古市忠夫(プロゴルファー)
4/16 大谷由里子(プロデューサー)
4/17 後藤昌幸(滋賀ダイハツ販売グループオーナー)
4/18 林 薫(ハヤシ人材教育研究所所長)
4/19 菅原勇継(玉子屋社長)
4/20 千葉ウメ(鎌倉鉢の木創業者)
4/21 飯田 亮(セコム会長)
4/22 佐久間曻二(WOWOW相談役)
4/23 數土文夫(JFEホールディングス特別顧問)
4/24 黒田暲之助(コクヨ会長)
4/25 安岡正篤(東洋思想家)
4/26 笠原将弘(日本料理「賛否両論」店主)
4/27 西谷浩一(大阪桐蔭高等学校硬式野球部監督)
4/28 陳 建一(四川飯店オーナーシェフ)
4/29 桂 歌丸(落語芸術協会会長)
4/30 伊與田 覺(論語普及会学監)

5/1 梁瀬次郎(ヤナセ会長)
5/2 渋沢栄一(実業家)
5/3 牧野眞一(ムッシュマキノオーナーシェフ)
5/4 水野 学(クリエイティブディレクター)
5/5 西田文郎(サンリ会長)
5/6 井村雅代(アーティスティックスイミング日本代表ヘッドコーチ)
5/7 染谷和巳(アイウィル主宰)
5/8 中西輝政(京都大学名誉教授)
5/9 中矢伸一(日本弥栄の会代表)
5/10 笹戸千津子(彫刻家)
5/11 小田禎彦(加賀屋会長)
5/12 川端克宜(アース製薬社長)
5/13 中條高德(アサヒビール名誉顧問)
5/14 青木擴憲(AOKIホールディングス会長)
5/15 林 雄二郎(日本フィランソロピー協会顧問・トヨタ財団元専務理事)
5/16 野中郁次郎(一橋大学名誉教授)
5/17 竹田和平
5/18 林野 宏(クレディセゾン社長)
5/19 植松 努(植松電機代表取締役)
5/20 森下篤史(テンポスバスターズ社長)
5/21 小田豊四郎(六花亭製菓代表取締役)
5/22 青山俊董(愛知専門尼僧堂堂頭)
5/23 小出義雄(佐倉アスリート倶楽部社長)
5/24 河野義行(松本サリン事件被害者)
5/25 永田勝太郎(公益財団法人 国際全人医療研究所理事長)
5/26 山下泰裕(東海大学教授)
5/27 桜井正光(リコー会長)
5/28 堀 文子(日本画家)
5/29 津田 晃(野村證券元専務)
5/30 古森重隆(富士フイルムホールディングス会長兼CEO)
5/31 西堀栄三郎(理学博士)

6/1 杉原輝雄(プロゴルファー)
6/2 宇野千代(作家)
6/3 柳澤桂子(生命科学者)
6/4 渡辺和子(ノートルダム清心学園理事長)
6/5 水戸岡鋭治(工業デザイナー)
6/6 水野彌一(京都大学アメリカンフットボール部前監督)
6/7 比屋根 毅(エーデルワイス社長)
6/8 中村 豪(愛知工業大学名電高等学校・豊田大谷高等学校硬式野球部元監督)
6/9 黒柳徹子(女優・ユニセフ親善大使)
6/10 曽野綾子(作家)
6/11 遠藤 功(シナ・コーポレーション代表取締役)
6/12 河原成美(力の源ホールディングス社長、ラーメン店「一風堂」創業者)
6/13 古沼貞雄(サッカー指導者・帝京高等学校サッカー部元監督)
6/14 酒巻 久(キヤノン電子社長)
6/15 山元加津子(特別支援学校教諭)
6/16 脇谷みどり(作家)
6/17 千 玄室(茶道裏千家前家元)
6/18 大平光代(弁護士)
6/19 清川 妙(作家)
6/20 桜井章一(雀鬼会会長)
6/21 熊田千佳慕(生物画家)
6/22 ジェローム・シュシャン(ゴディバ ジャパン社長)
6/23 尾車浩一(尾車部屋親方)
6/24 石原仁司(日本料理・未在店主)
6/25 鮫島純子(エッセイスト)
6/26 岩出雅之(帝京大学ラグビー部監督)
6/27 鈴木敏文(セブン&アイ・ホールディングス名誉顧問)
6/28 白駒妃登美(ことほぎ代表取締役)
6/29 堀澤祖門(三千院門跡門主)
6/30 林 南八(元トヨタ自動車技監)

7/1 石川紀行(草木谷を守る会代表)
7/2 納屋幸喜(相撲博物館館長・元横綱大鵬)
7/3 宇治田透玄(東井義雄記念館館長)
7/4 高橋忠之(志摩観光ホテル元総料理長兼総支配人)
7/5 小嶺忠敏(長崎県立国見高等学校サッカー部総監督)
7/6 田中澄憲(明治大学ラグビー部監督)
7/7 松本明慶(大佛師)
7/8 宮本祖豊(十二年籠山行満行者・比叡山延暦寺円龍院住職)
7/9 橋本保雄(日本ホスピタリティ推進協会理事長・ホテルオークラ元副社長)
7/10 辰巳芳子(料理研究家)
7/11 宮本 輝(作家)
7/12 大村 智(北里大学特別栄誉教授)
7/13 川田達男(セーレン会長兼CEO)
7/14 金出武雄(カーネギーメロン大学教授)
7/15 北方謙三(作家)
7/16 長谷川富三郎(板画家)
7/17 鈴木鎮一(才能教育研究会会長)
7/18 大山澄太(俳人)
7/19 佐藤愛子(作家)
7/20 稲尾和久(プロ野球解説者)
7/21 小林ハル(越後瞽女・人間国宝)
7/22 フジコ・ヘミング(ピアニスト)
7/23 河田勝彦(オーボンヴュータンオーナーシェフ)
7/24 塙 昭彦(セブン&アイ・フードシステムズ社長、前イトーヨーカ堂中国総代表)
7/25 鳥羽博道(ドトールコーヒー名誉会長)
7/26 森口邦彦(染色家・人間国宝)
7/27 新津春子(日本空港テクノ所属環境マイスター)
7/28 荒牧 勇(中京大学スポーツ科学部教授)
7/29 植木義晴(日本航空会長)
7/30 谷川浩司(日本将棋連盟棋士九段)
7/31 塩見志満子(のらねこ学かん代表)

8/1 山本康博(ビジネス・バリュー・クリエイションズ代表)
8/2 岸良裕司(ゴールドラット・コンサルティング日本代表)
8/3 滝川広志〈コロッケ〉(ものまねタレント・俳優)
8/4 前野隆司(慶應義塾大学大学院教授)
8/5 松岡修造(スポーツキャスター)
8/6 加藤彰彦(沖縄大学人文学部福祉文化学科教授)
8/7 斎藤智也(聖光学院高等学校硬式野球部監督)
8/8 坂東玉三郎(歌舞伎俳優)
8/9 川辺 清(五苑マルシングループ代表)
8/10 秋丸由美子(明月堂教育室長)
8/11 是松いづみ(福岡市立百道浜小学校特別支援学級教諭)
8/12 淡谷のり子(歌手)
8/13 松野幸吉(日本ビクター会長)
8/14 藤原正彦(数学者)
8/15 小野田寛郎(元陸軍少尉・財団法人 小野田自然塾理事長)
8/16 早乙女哲哉(天ぷら﹁みかわ是山居﹂主人)
8/17 田村 潤(100年プランニング代表・キリンビール元副社長)
8/18 片岡一則(ナノ医療イノベーションセンター センター長)
8/19 八杉康夫(戦艦大和語り部)
8/20 福地茂雄(アサヒビール社長)
8/21 岡村美穂子(大谷大学非常勤講師)
8/22 佐野公俊(明徳会総合新川橋病院副院長・脳神経外科顧問)
8/23 占部賢志(福岡県立太宰府高等学校教諭)
8/24 山田満知子(フィギュアスケートコーチ)
8/25 江崎玲於奈(物理学者)
8/26 塚本こなみ(浜松市花みどり振興財団理事長)
8/27 高嶋 栄(船井総研ホールディングス社長)
8/28 川勝宣昭(DANTOTZ consulting代表)
8/29 髙田 明(ジャパネットたかた創業者)
8/30 山川宗玄(正眼寺住職)
8/31 奥田政行(「アル・ケッチァーノ」オーナーシェフ)

9/1 米田 肇(HAJIMEオーナーシェフ)
9/2 加藤健二(元キャピトル東急ホテル エグゼクティブコンシェルジェ)
9/3 ガッツ石松(元WBC世界ライト級チャンピオン)
9/4 三浦由紀江(日本レストランエンタプライズ大宮営業所長)
9/5 石川真理子(作家)
9/6 二宮尊徳(農政家)
9/7 中村桂子(JT生命誌研究館館長)
9/8 牛尾治朗(ウシオ電機会長)
9/9 相田みつを(書家)
9/10 外山滋比古(お茶の水女子大学名誉教授)
9/11 唐池恒二(九州旅客鉄道会長)
9/12 谷川徹三(哲学者)
9/13 川島英子(塩瀬総本家三十四代当主・会長)
9/14 山本富士子(女優)
9/15 野尻武敏(神戸大学名誉教授・生活協同組合コープこうべ理事長)
9/16 松久朋琳(大仏師)
9/17 藤森 武(写真家)
9/18 日比孝𠮷(名古屋製酪社長)
9/19 鷺 珠江(河井寬次郎記念館学芸員)
9/20 大久保恒夫(成城石井社長)
9/21 松原泰道(南無の会会長・龍源寺前住職)
9/22 吉田悦之(本居宣長記念館館長)
9/23 平岩外四(東京電力社長)
9/24 井上康生(全日本柔道男子代表監督)
9/25 樋口武男(大和ハウス工業会長兼CEO)
9/26 栗山英樹(北海道日本ハムファイターズ監督)
9/27 大谷將夫(タカラ物流システム社長・タカラ長運社長)
9/28 加治敬通(ハローデイ社長)
9/29 山下弘子
9/30 豊田良平(コスモ証券元副社長)

10/1 岡田武史(日本サッカー協会理事・サッカー日本代表前監督)
10/2 矢野博丈(大創産業創業者)
10/3 小島直記(作家)
10/4 片岡球子(日本画家)
10/5 高原慶一朗(ユニ・チャーム会長)
10/6 新井正明(住友生命保険元社長)
10/7 森本哲郎(評論家)
10/8 金子正子(日本水泳連盟シンクロ委員長)
10/9 神田昌典(経営コンサルタント)
10/10 観世榮夫(能楽師)
10/11 福永正三(京セラオプテック元社長)
10/12 島田洋七(漫才師)
10/13 田中真澄(社会教育家)
10/14 木村秋則(りんご農家)
10/15 海稲良光(OJTソリューションズ専務)
10/16 東井浴子(浄土真宗東光寺坊守)
10/17 吉丸房江(健康道場・コスモポート主宰)
10/18 原 俊郎(航空ジャーナリスト)
10/19 加藤俊徳(﹁脳の学校﹂代表取締役・医師・医学博士)
10/20 高田 宏(作家)
10/21 西岡常一(法隆寺・薬師寺宮大工棟梁)
10/22 北川八郎(陶芸家)
10/23 平岡和徳(熊本県宇城市教育長・熊本県立大津高等学校サッカー部総監督)
10/24 佐々木將人(合気道本部師範)
10/25 古田貴之(千葉工業大学未来ロボット技術研究センター所長)
10/26 天田昭次(刀匠)
10/27 山田惠諦(比叡山天台座主)
10/28 横田南嶺(円覚寺派管長)
10/29 渡邊直人(王将フードサービス社長)
10/30 長谷川和廣(会社力研究所代表)
10/31 渕上貴美子(杉並学院中学高等学校合唱部指揮者)

11/1 覚張利彦(SMIジャパン公認エージェンシー リバティー北海道代表)
11/2 吉野 彰(旭化成名誉フェロー)
11/3 岩倉真紀子(京都明徳高等学校ダンス部顧問)
11/4 藤重佳久(活水高等学校吹奏楽部音楽監督)
11/5 隈 研吾(建築家)
11/6 山髙篤行(順天堂大学医学部小児外科・小児泌尿生殖器外科主任教授)
11/7 佐藤久夫(明成高等学校男子バスケットボール部ヘッドコーチ)
11/8 鈴木秀子(文学博士)
11/9 川口淳一郎(宇宙航空研究開発機構シニアフェロー)
11/10 木下宗昭(佐川印刷会長)
11/11 佐藤 等(ドラッカー学会理事)
11/12 上山博康(旭川赤十字病院第一脳神経外科部長・脳卒中センター長)
11/13 孫 正義(日本ソフトバンク社長)
11/14 野口誠一(八起会会長)
11/15 丸谷明夫(大阪府立淀川工科高等学校名誉教諭・吹奏楽部顧問)
11/16 堺屋太一(作家)
11/17 谷沢永一(関西大学名誉教授)
11/18 白鵬 翔(第六十九代横綱)
11/19 尾形 仂(国文学者)
11/20 東城百合子(『あなたと健康』主幹)
11/21 澤村 豊(北海道大学病院脳神経外科医)
11/22 青木定雄(MKグループ・オーナー)
11/23 東井義雄(教育者)
11/24 辻口博啓(パティシエ)
11/25 やましたひでこ(クラター・コンサルタント)
11/26 黒川光博(虎屋社長)
11/27 山本明弘(広島市信用組合理事長)
11/28 平山郁夫(画家)
11/29 舩井幸雄(船井総合研究所社長)
11/30 井原隆一(日本光電工業副社長)

12/1 池江美由紀(EQWELチャイルドアカデミー本八幡教室代表)
12/2 山田重太郎(漁師)
12/3 松崎運之助(夜間中学校教諭)
12/4 堀内政三(巣鴨学園理事長・学校長)
12/5 苅谷夏子(大村はま記念国語教育の会事務局長)
12/6 中村 元(東方学院院長)
12/7 高橋幸宏(榊原記念病院副院長)
12/8 大石邦子(エッセイスト)
12/9 帯津良一(帯津三敬病院名誉院長)
12/10 三村仁司(アシックスグランドマイスター)
12/11 小林研一郎(指揮者)
12/12 柴田知栄(第一生命保険特選営業主任)
12/13 北尾吉孝(SBIホールディングス社長)
12/14 外尾悦郎(サグラダ・ファミリア主任彫刻家)
12/15 羽生善治(将棋棋士)
12/16 皆藤 章(臨床心理士)
12/17 羽鳥兼市(IDOM名誉会長)
12/18 内田美智子(助産師)
12/19 鈴木茂晴(大和証券グループ本社社長)
12/20 青谷洋治(坂東太郎社長)
12/21 一川 一(剣道教士八段)
12/22 西本智実(指揮者)
12/23 菊間千乃(弁護士)
12/24 神坂次郎(作家)
12/25 近藤文夫(てんぷら近藤 店主)
12/26 青木新門(作家)
12/27 小林正観(心学研究家)
12/28 井山裕太(囲碁棋士)
12/29 童門冬二(作家)
12/30 境野勝悟(東洋思想家)
12/31 森 信三(哲学者)


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