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「君の名前で僕を呼んで」がプラトンの『饗宴』&スペインのことわざ「あなたは私のオレンジの片割れ」だった話を延々とする


プラトン『饗宴 副題:恋について』のアリストパネスの演説では、二体一身についてこう述べられている。

原始、人間は男と女と男女(両性具有)の三種がいて、それぞれ男男、女女、男女が背中合わせに二体一身の状態だったわけだが、愚かにも神々に挑んだ為にゼウス(全知全能の神)によって片割れを切り離されてしまい、今の我々の姿になった。

だから我々は半身の片割れを求めるようになり、男らしい男は男を、女らしい女は女を、中途半端な多くの人間は異性を求めるようになった。(ここにおける異性の定義はよくわからんが)

さらにスペインのことわざ「オレンジの片割れ」はオレンジを切り離すと自分の対は一つしかないことから、運命の相手をオレンジの切り離された片方として表す。

『翻訳できない世界のことば』より


これはおそらくプラトン『饗宴 副題:恋について』のアリストパネスの演説に影響を受けているのだろう。

cmbynで「君の名前で僕を呼んで、僕の名前で君を呼ぶ(Call me by your name,I'll call you by mine)」という台詞がある。

名前は自分を示すための記号だ。
それを相手に付与して相手の記号を自らに付与する行為は、自分と相手との境界を曖昧にする行為なんだと思う。

ムンクの《接吻》のモチーフは、愛とは個人の喪失であるという旨の解説がされている。愛し合う二人の境界が溶け合う様を表しているのだろう。
人間を愛することは、どちらのものともつかない幸せを共有することだと私は思うので、見えない意識を絵によって視覚化されているこの絵が大好きだ。

劇中でOliverの言うこの台詞は、この世で一番美しい愛の告白だと私は思う。
私はあなたであなたは私。
そう思うほどに人を愛することができるって、人間はなんて愛らしい生き物なんだろう。

話がずれた。
つまり、この台詞は「あなたは私のオレンジの片割れ」だという告白と重なる。
自分と相手がかつて二体一身だったからこそ、お互いを分かつ境界が曖昧になってしまう。
二人を分かつ名前という境界が、今までの役割を無くしてしまう。究極の愛の告白が映画のタイトルになっているのである。

アツイ。

Elio父による「特別な絆」という形容は二体一身を示唆していたのだろう。
父もOliverも学者だったのでこの話は知っていたに違いない。だからこそOliverは意図的にこの愛の台詞を吐いたのだろうし、父は二人の関係を(意図していないにしろ)二体一身になぞらえることができたのだろう。

ただ、Oliverは敬虔なユダヤ教信者であり、同性愛は禁じられている。
信仰と血縁を裏切ることは(社会的にも)出来ずに、最後の選択をせざるを得なかった。

だから最後の電話での、片割れと一生結ばれることのないOliverとElioの最後の挨拶には、選ぶことができなかった自分は片割れを一生忘れることがないという誓いを含んでいた。Oliverは振り絞るようにElioを「Oliver」と一度だけしか呼べなかった。

Oliverは、その一言に自分の半身との離別の辛苦を全て織り込み、
Elioは自分の半身が自分の名前を今後呼ぶことはない事実に悲しみと痛みを共にして耽り、
世界はハヌカの準備をして永遠のように続く日々を祝福するのである。

自らの半身と永遠に結ばれない彼らも、永遠のように続く日々の中で祝福されて生きなければならないのに。

#君の名前で僕を呼んで #Callmebyyourname #cmbyn #映画 #映画感想

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