出所不明の記憶

皆さんは、子どもの頃の記憶がどのくらいあるだろうか。ただし、ここで思い浮かべてほしいのは、家族と旅行に行ったとか、友達とケンカをしたとか、そういったエピソードが伴うようなものじゃなく、なぜ覚えてるのか解らないような、ふとした光景や、誰かの些細な言葉。あやふやで、本当の出来事かどうかも判然としない、出所不明の記憶について。
僕にもそんな記憶は無数にあるのだけれど、常にそのことを覚えているというよりも、普段の生活の中で、ふっと脳裏に蘇っては消えていく短い動画や写真のようなもので、例を挙げるのが難しい。それを説明しても、または誰かにされたとしても、突飛な夢の話のようなもので、「へえ〜」としか言えないんじゃないかと思う。ともかく、そういう類の記憶って、みんなそれぞれ抱えてるのかなあ、という話。

おそらく2年くらい前のこと。まだ保育園児だった娘と風呂に入りながら、そんなことについての会話をした。人間は、訳もなく覚えていることと、忘れたくないのに忘れてしまうものがある。それはとても不思議だよね。で、僕は思いつきで、「実験してみようか」と娘に提案をした。今から父ちゃんが言うキーワードを、10年とか20年後にも覚えてたら教えてくれ、と。このお風呂場と、父親がなんでもない言葉を言った光景を覚えていてくれたなら面白いと思った。僕は、なるべく脈絡が無く、かつ特殊ではない日常的な、とあるキーワードを選び、言った。娘は「オッケイ」みたいな感じで返事をしたのだった。

話は変わって、先日Amazonプライムで、『ラ・ジュテ』というフランス映画を観た。これは、大大大好きな『12モンキーズ』の元になった作品で、それを何かで知って、いつか観たいなと思っていたのをたまたま発見できた。全編モノクロ写真とナレーションのみで進行する、とても静的な短編映画だった。音として届くのはフランス語だし、結構さくさくと進むので、ストーリーをキャッチするのが難しくてちょっと置いてけぼりを食ったけれど、なるほど、たしかに原作。しかしこんなに素朴で、実験的なものだったとは。

『12〜』を最初に観たのは、中学生かな。当時はテリー・ギリアムなんて知らなくて、ブルース・ウィリスとブラッド・ピットが好きだったから観たのかもしれない。なんだかすげえ新しいモノを観た!っていう感触と、最後は猛烈に切ない気持ちにさせられる映画だった。その切なさが自分のどこからやってくるのか分からない。だけど、強烈に心に焼き付き、駆り立てられるようにレンタルビデオを何度も観た。音楽の印象も強くて、アストル・ピアソラとルイ・アームストロングも知るきっかけにもなった。すごく素朴な『ラ・ジュテ』を観たことで、後の『12〜』の物語の広げ方の面白さに気付かせてもらったと同時に、一体なぜあんなにも強く惹かれたのかについて考えさせられる。

ちなみに、僕の出所不明の記憶が映すものは、なんとなくカラーバージョンである。だけどそれは正真正銘の“なんとなく”で、もし「何色なの?」と訊かれたらと想像してみると、途端にあやふやになる。詳しい説明できるほどの根拠が無い。それはきっとこれまでの経験や常識的な感覚に基づいて、自分で塗り絵したものなんじゃないかと思う。見えるものの角度や配置だってもちろん正確じゃないし、都合がいいように改変もされるのだろう。だけど、今は失われた物や空間、もう居ない人の質感だけがしっかり残っている。そんな手の届かなさが気持ちを揺さぶるのかもしれない。
『ラ・ジュテ』自体には、あからさまな強い感情が込められていないように思うのだけれど、そのモノクロさも相まって、記憶がもたらす余韻の物悲しさを見せられたような気がした。

そんなふうに思い巡らせていた今日この頃、娘に「あのとき、お風呂でなんて言ったか覚えてる?」と、早々に確認をいれてみた。...もう覚えていなかった。しかし、ここで再度キーワードを教えてしまえば、それはほんの少しだけ印象的な記憶に進化して、「ちゃんと覚えていた」ことになったりとか、きっと塗り変わっちゃうのだろう。わかっていたけれど、コントロール出来るものじゃない。実験は失敗だ。

だけど、いつかそんな出所不明の記憶の話を、息子や娘と出来たらと思う。僕の一挙一動が、どんなふうに切り取られ、どこが残ってしまうのか。不安でも楽しみでもある。

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