インディ・ジョーンズと好き嫌い

我が家の小3娘は、わりと食べ物の好き嫌い多い系である。
それだけならまあいいのだけど、食卓に出た苦手な食べ物に対して、言わんでもいいのにわざわざネガティブな言葉をぶつけるクセがあり、それをいつも嗜める。いざこれから食事を楽しもうというときに、そんなバッドなヴァイブスを撒き散らすもんじゃありません。それに食べ物や作った人(←僕の場合もある)に失礼だろがい。

気持ちは分かる。だが礼節というものも知らねばなるまい。兎角、食べ物というのはセンシティブなものだ。誰かにとってはご馳走だったり、当たり前に手に入るものじゃなかったりする。

そんなとき、子どもの頃に金曜ロードショーの録画で何度観た『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』を思い出す。
インドの貧しい村を訪れた主人公たち一行。出された黒っぽいつぶつぶなペースト状の食事に「うへっ」ってリアクションをするヒロインに、「食え。村人の一週間分の食事だぞ。最高のもてなしだぞ」とインディ。痩せ細った村人たちに見つめられながら、苦笑いしながら、つぶつぶペーストをみんなで食べる。(…記憶で書いてます。間違ってたらすみません)
一方、客として忍び込んだ王宮での宴会では、なんかの甲虫、ウナギの蛇詰め踊り食い、猿の脳みそシャーベット、目玉のスープ!(ここでヒロインがぶっ倒れてCMだったと思う)。これには大いに驚嘆&恐怖する、というギャグになっていた。
今思うと、食シーンの振り幅がすごい映画だった。“食”の持つ、素朴な切実さと、トラウマ級のぶっ飛びさの両面を描いてる。

大人になってみて思ったけれど、こういう食のカルチャーショックが物語に組み込まれたとき、それを普段から食する文化圏の人間はどんな気持ちになるものなのだろう。自分に置き換えたら、やはり日本人が喜んで食べてるものがゲテモノ扱いされたら、腹は立たないかもしれないけど、ピンとこないかもしれない。
そういえば、ホラー映画『ゴーストシップ』で、船内で見つけた缶詰を美味しく食べてたら幻で、実はウジ虫だった!みたいなシーンがあったけど、虫を食べる人からしたら恐怖シーンが成立しないかもしれない。
幻が解けてみたら…実は元気なシラウオだった!となったら、お醤油があれば日本人ならなんとか頑張れそうだ。

つまり、制作側と受け手が、それを「ゲテである」と感じている同士でないと、描きたい状況が生まれない。魔宮の伝説のあのゲテ感が全く通用しない食文化も、この世界にはあるかもしれない。これだけ情報がネットひとつで横並びになった現代では、物語に描きづらくなったんじゃないかなと想像する。

でも最近、同じ国や同じ人種同士で、その国のちょっと一歩踏み込んだ食べ物の好き嫌いの会話を描くものを発見することがあって、リアルな雰囲気を垣間見れる感じが面白い。最近だと、韓国の『コンクリート・ユートピア』カイコの缶詰とか、英国「ワシントン・ポー」シリーズのどこかで出てきたブラッドソーセージとかが印象深い。みんながみんな食べるってわけじゃないんだ!っていうのは、まあ当然ではあるのだけれど、それはそれで2度目のカルチャーショックみたいな、そんな感じがして楽しい。納豆とか海苔とか梅干しも、海の向こうの皆さんからしたら、まさか苦手な日本人がいるとは思ってないかもしれない。

ちなみに僕としては、多少の食べ物の好き嫌いくらいはあっても良いと思っている。実はこれ、西尾維新『化物語』の中で語られた「大嫌いなものがあるから大好きなものがある」「“なんでも好き”というのは、“なにも好きじゃない”と同じ」というような論に深く感じ入った影響が大きい。大好きなものが無い人生は、なんだか味気ない。そして嫌いなものや苦手なものも、その人を形作る大事な要素なのだと思う。

だけど、苦手だ嫌いだを増長させる必要も無い。9歳児よ、色々食って、体験してから考えなさいな。「あれ?美味しい」は、ある日突然やってくることがある。逆に大人になってから苦手になるものがあったりもするので不思議だ。ここ数年、急に苦手になった鶏肉のぷるんとした皮を、いつも代わりに食べてくれてありがとう。


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