見出し画像

楽器の女王を探して~アブダビ通信⑦~

 真夏には毎日50度近くまで気温が上がり、湿度も90パーセントを超えるアブダビだが、11月から3月にかけては、日本の初夏のような、からっとしてさわやかな気候が続く。それはそんな気持ちのよい天気が続いていたある週末の、ちょっとした冒険だった。
 ――サイトウの住んでいるフラットの近くに、大きなスーパーマーケットがあるでしょう。その道路を挟んで向かい側の、奥にあるのよ。
 エジプト人の同僚で、音楽担当のハーラに教えてもらった大雑把な説明だけを頼りに私が探しに出かけたのは、「ウード屋さん(兼ウード教室)」である。


 ウード、というのは、アラブの人々に「楽器の女王」と呼ばれている、アラビアの最も伝統的かつ代表的な楽器である。はるか昔からアラブの人々に親しまれ、シルクロードを辿ってやがてヨーロッパではリュートとなり、日本では「平家物語」でお馴染みの琵琶の元となった。アブダビのどの小学校の音楽室にも、必ず一台は置いてある。
 この楽器は全体が寄木細工でつくられていて、ゆで卵を縦に切ったようなその丸っこく気取らない胴の形と、丁寧に磨かれて浮かび上がっているその木目が非常に美しい。使われている木材の種類やその組み方によって、色どりや模様も実に様々である。中には見事なモザイクになっているものやかなり手の込んだ螺鈿細工が施されているものもあって、そこまでいくともう楽器、というよりは職人による芸術品、と呼ぶべきであろう。
 丸っこい胴をひっくり返すと、平らで薄い板に五本の複弦が張られていて、大きく後ろに折れ曲がった竿の先でギターなどと同じようにきりきりと弦を巻いて調律をする。調律を終えた弦をプラスチック製の薄いピックで弾(はじ)くと、素朴だけれど力強い、そして不思議な音が心地よい振動と共に広がって私の身体を包む。


 どうも私は非常に「惚れっぽい」性格であるらしい。初めてウードを見たのはいかにも外国人観光客向けの「アラブ」を造りました、といった感じの少々嘘くさい観光施設だったのだが、それでも私はその中で行われていた演奏や楽器製作のデモンストレーション、そして楽器そのものの美しさに目が釘づけになってしまったのである。それ以来、この美しくて不思議な、でも形からして人懐こさを感じさせる楽器がずっと忘れられず、こちらで売られているウード奏者のCDを何枚も買って来ては毎日のように繰り返し聴き始め、例によって同僚の教師たちに、私、ウードが欲しいのだけれど、そしてできれば、一曲でいいから何か弾けるようになりたいのだけれど、と相談した。相談すると、どの人も大喜びで力になってくれようとするのがアラブ人である。この時もわいわいと同僚たちが話し始めるとたちどころにたくさんの情報が集まったが、その中でも一番自宅に近いと思われたのが、音楽担当のハーラが教えてくれた「ウード屋さん(兼ウード教室)」であった。かくて週末。サイトウ、「楽器の女王」ウードを求めて出発。 


 さて、ハーラの言っていた我が家から歩いて十数分のところにある「大きなスーパーマーケット」の「通りを挟んだ向かい側のその奥」へは、アブダビに来てからまだ一度も足を踏み入れたことがなかった。通りの表側は「大きなスーパーマーケット」を始めとして、UAE内外の銀行の支店や日本にもある有名な語学学校の現代的なビル、やはり日本でもお馴染みのファーストフード店ばかり並んでいて、そこだけ見るとどこの国の都市にいるのかわからないほどなのだが、「その奥」は、明らかにアラブの――産油国ではないアラブの――人々の日常生活が溢れていた。肉屋さん。魚屋さん。パン屋さん。電気屋さんにクリーニング屋さんに、床屋さんに雑貨屋さん。そして、かなり庶民的な値段のアラブ料理の食堂。古びた看板はほとんどアラビア語で、それぞれの店の上階は住居用だということが、干されている洗濯物や窓からこちらを見下ろしている赤ちゃんを抱いた女性の姿でわかった。店の玄関では、立派なひげを蓄えたお爺さんたちが、椅子にどっかりと腰を下ろして、お茶を飲みながらお喋りをしている。その前を、毎日学校で着ているカンドゥーラ(民族衣装の白い長衣)を脱いでTシャツ姿になった子どもたちが、サッカーボールを追いかけながら走る。
 道は広くもないかわりに狭くもなく、わずか百メートル四方に碁盤の目のようにのびているだけなので、迷子になる心配はなさそうだった。それでも同じ大きさの建物に同じような看板がついた店が何軒も何軒も並んでいるので、きょろきょろしながらゆっくり歩いて行く。この中にウードのお店なんて、しかも教室もやっているところなんて本当にあるのかなあ、と思い始めたころ、やはりペンキの剥げかかった古い看板に、私はようやく、探し求めていた「楽器の女王」の絵を見つけた。ガラス越しに中をのぞくと、壁一面に飾られたたくさんのウードがやわらかく光っている。そしてゆっくりと入口のドアを開けると、あの弦を爪弾く音――。
 こうして見つけた「ウード屋さん(兼ウード教室)」は、その名を「ダル・アルトラス音楽・工芸教室」といった。ウードが主だが、他にピアノ、ギター、バイオリン、声楽(アラブ音楽)のコースがある。音楽の他にアラブの工芸品をつくるコースもあるらしい。
 プロのウード奏者である校長先生は年配のシリア人で、ほお、日本人かい、めずらしいね、と言ってお茶を出してくれた上、ウードが好きなのかい?そりゃあいい、すぐ弾けるようになるよ。そう言って、目の前で早速一曲披露してくれた。レッスンは1コース24回、約3万円。こうして見つけたウード教室で、私は今、レバノンの国民的歌手であるフェイルーズの弾き語りに挑戦している。

※このエッセイは「短歌往来」2010年1月号から8月号にかけて連載されたものです。本稿は今回の掲載にあたり、一部書き改めました。

おまけ。

↑ こちらはアラブを代表する天才ウード奏者・シャンマの演奏。こんな月の美しい夜にはぴったりです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?