「遠さ」を詠うということ~山内頌子歌集『シロツメクサを探すだろうに』~
こんな風が吹いているなら御所にゆきシロツメクサを探すだろうに
「こんな風」とはどんな風なのか。この一首にことさらな説明はないけれど、「御所」という場所と、「シロツメクサを探す」という動作をもって、子どものころに誰もが一度は頬に受けたことのあるであろうそのあたたかさや明るさ、においがそっと読者に手渡される。しかしながら、結句の「だろうに」という詠嘆は、作者が現在いる場所が「御所」からはとても遠いということもまた確かに伝えていて、作者と同じように遠い場所で「風」を感じている私たちは、その遠さと切なさをもまた共有するのである。この遠さは、物理的な距離ばかりをさすのではない。無邪気に「シロツメクサを探す」ことのできた子どものころ。そんな無邪気さを取り戻すことのできるゆとり。あるいは、「御所」が経て来た長いながい時間――。いろいろなものから、私たちはどれほど遠ざかってしまったことだろう。そんな切なさや懐かしさを感じさせる「遠さ」が、山内頌子の歌にはある。
ねじ式の鍵で硝子の窓しめる映りつつゆく人ゆらゆらと
ぽっつんとどこか遠くで人を呼ぶ猫のようなる滴 ぽっつん
指のさき魚鱗のように揺らしつつ橋を渡れり 橋が重たい
どの世にも滴りはあり誰彼とともにあの橋渡らざること
古い建物なのだろう、窓を閉める「ねじ式の鍵」のリアルな手触りや「ゆらゆらと」と表現される「硝子」のゆがみは、それを通して「窓」が映し出してきた長い年月をゆっくりとさかのぼってゆくかのようだ。二首目で繰り返される「ぽっつん」という音と音との間にもまた、そこだけ止まったかのような時間がある。三首目と四首目でうたわれている「橋」はそれぞれ別のものだけれども、「魚鱗のように」という比喩や「橋が重たい」という感覚で表現される「橋」を渡りきるまでの距離も、「あの橋わたらざること」という思い出も、やはり「遠い」。
山内頌子の歌の大きな魅力は、そのやわらかな言葉で、私たちの日常のなかにある美しい、しかし小さくて儚いものたちをそっとすくい上げてみせるところにあると思う。そしてそこにあるのはさまざまな「遠さ」と、その「遠さ」に想いを馳せるときに私たちが感じる、やはりさまざまな感情である。
ハンカチはどれも四角く一日を閉じて過ごせる花もいくつか
「現代短歌新聞」2020年2月号「読みましたか?この一冊」
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