戦争とはちみつ
この子の名前は、アサル。「はちみつ」っていう意味なのよ。彼女はそう言って、少し恥ずかしそうに「日本」という遠い国から来た私を見ている五歳の娘に微笑みかけた。ほら、齋藤先生に英語でごあいさつしてごらん?
アラブ首長国連邦の公立小学校で日本語教師として働き始めてから帰国するまで、通訳も兼ねていろいろと相談に乗ってくれたのは、高学年の英語を担当しているエクラスだった。国籍はシリア。夫も別の公立学校で英語の先生をしている。この日はいつもより早く終わった仕事の後に「家まで送るから一緒に帰ろう」と誘ってくれて、その途中、幼稚園に通っている彼女の娘、「はちみつ」ちゃんを迎えに寄ったのだった。
ごあいさつは、ともう一度言われたアサルは、小さな声で早口に「はじめまして」と言って私と握手すると、くすくす笑いながらエクラスの後ろに隠れてしまった。お母さんと同じ、白い肌。天然パーマのかかった栗色の髪の毛がふわふわと風に泳いでいる。エクラスの後ろからひょこっと顔を出すと、長い睫毛に縁どられた大きな瞳も明るい茶色で、微笑むと光の加減で一瞬金色に見える。
エクラスは学校に何人かいる英語の先生たちの中でも、ずば抜けてきれいな発音の正確な英語を話した。学校に欧米からのお客様が来た時に通訳をするのはいつも彼女だったし、教育委員会などに提出する英語の書類(公文書はアラビア語と英語、両方用意しなければならない)をチェックするのも彼女だ。何度も見学させてもらった授業はゲームや歌がテンポよくたくさん出てきて、大人の私でも飽きなかった。
そんなエクラスと、ここのところしばらく途絶えていた音信がようやく復活したのはアメリカがシリアへの軍事介入を示唆した、先週のことである。彼女の実家は、現在さらに情勢が緊迫しているシリアにある。「ダマスカス市内の実家が爆撃を受けて、両親も兄弟も引っ越したの。幸いみんな今は無事だけれど母は癌を患っていて、でもそういう状態だから治療を受けることも薬をもらうこともできない。心配でたまらない。せめて両親だけでもアブダビに呼び寄せたいのだけれど、アブダビ政府はシリア人へのビザの発給をストップしちゃったの。」
夜遅く、きっと急いで打ちこんでくれたのだろうメールに、私は絶句するしかなかった。以来ずっと、授業をしている彼女の元気な声やアサルの小さな手が、頭の中をぐるぐると巡り続けている。
2013年9月6日 福島民報「ティータイム」
追記
この拙い原稿を書いてから、もう10年以上経ってしまったのが信じられません。
今回久しぶりに彼女にメールをしたところ、すぐに返事をくれました。
「(アサド政権の崩壊を)みんなとても喜んでいる。信じられない」
「夢を見ているようだ」
と。
わたしの怠惰のせいで連絡が途絶えてしまっていたのですが、彼女は今もアブダビで家族とともに元気に暮らしています。
シリアにいる家族も無事だそうです。
英語教師として、後進の指導にも忙しい毎日だそうです。
一人の友人として、
尊敬する彼女とご家族の日々が、
いつまでもあたたかく平穏であることを祈ります。