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模型も図面も実験もいらない

昨年、流し読みして内容を覚えていなかったニコラ・テスラの自伝を再度読み返してみた。
りんに読み聞かせると、すんなり理解し意味深な笑みを浮かべる。
出版から100年経過した現在でも、まだ地球ではこの能力が封印されていて、いよいよ子どもたちから順々に解き明かされている模様。

実は私は子供の頃にちょっと変わった苦悩を抱えていた。ふと何かの心象が浮かび上がってくることがあったのだ。たいがいはほぼ同時に強い閃光も見えた。その眩さのせいで本当に目の前にあるものは見えなくなり、それまで考えていたことや、やりかけていたことも中断せざるを得なかった。
 ただしそういったとき、見えてくるのは、見覚えのある事物や場面であって、決して勝手に作り上げたものではない。たとえば何か言葉をかけられると、その言葉の指すものが私の視界にはっきりと見えてきて、挙げ句、それが現実のものなのか否かがまったくわからなくなることがあった。そのために私は非常に不快だったし不安でもあった。心理学や生理学専攻の学生に相談したこともあるが、誰もこの現象をまともに説明できなかった。
 こうした現象はめったにないようだが、私の場合、兄も同じ問題を抱えていたそうだから、素因はあったのだろう。何らかの心象が見えたのは、強く刺激されたために脳が網膜へ作用した結果である、と私なりに理論を組み立てて考えていた。心を病み、苦しんでいるときに見えてくる幻覚とはきっと違う。というのも、私自身、ほかにおかしいところもなかったし、いたって冷静だったからだ。
 私の悩みの種がどんなものだったのかを説明するために、たとえば葬儀とか神経をすり減らしてしまいそうな光景などを見たとしよう。すると、夜の静寂に必ずやその場面が目の前に鮮やかに蘇ってきて、躍起になっていくらそれを消そうとしても、目に焼きついて消えなかった。私の解釈が正しければ、人が想像しているものはなんでも画面上に映し出して目に見えるようにできるはずだ。これくらいの進歩があれば、人間関係というものはまったく変わるであろう。この奇跡は成し遂げられるものだし、いずれそうなるに違いない。
 付け加えるなら、私はあれこれと考えを巡らせてはこの問題の解決に励んできた。何かの光景、もちろん私の頭のなかにある光景を、別の部屋にいる人の心に映し出そうと取り組んできた。また、目の前に何かが現れる苦しみから逃れようと、実際に過去に見たものに心を集中させようともした。そしてこの方法を使い、一時的にでも、とよく気を休めたものだった。
 でもそのためには、次々と新しい心象を彷彿させなくてはならない。ほどなく自分の思うままに思い描けるものはすべて出し尽くしてしまった。言うなれば「ひと巻き分の糸」を使い果たしてしまったのだ。なぜならば、それまで私が目にしてきたものは、この世界のほんの限られた部分でしかなく、せいぜい家にあるものや、すぐ身近にあるものくらいだった。
 こうして、私は自分の精神を操作していたのだが、二度目か三度目にそうしたときのことだ。目の前に現れたものを追い払おうとしていたが、その方法の効果は前よりも薄れてきていた。それ以降、私は無意識に、それまで知っていた狭い世界から踏み出し遠くへ足を伸ばすようになり、以前には見たこともなかった光景をいくつも目にしようとした。
 初めはひどくぼんやりして不明瞭だったし、よく見ようとすると消えてしまうこともあった。だが、だんだんと力強く明瞭になり、ついには実在するものとしてそこにあるかのように思えた。私にとって一番快適なのは、自分に見える世界にどんどん入り込み、いつも新しい心象を抱くことだとわかった。そこで旅に出発した。もちろん、頭のなかでの旅である。
 毎晩(ときには昼明るいうちでも)ひとりになると私は旅に出た。見知らぬ土地や街や風景をこの目で見た。その地に住み、人びとに出会い、友人や知人を得た。信じ難いかもしれないが、こうして知り合った人たちは私にとって本当に大切で、現実の生活で触れ合う人たちと少しも変わらなかった。姿もはっきり見えた。
 そうこうするうちに私は17歳になった。その頃から私は本気で発明の道に進もうと考え始めていた。ありがたいことに、いともたやすく頭のなかに思い浮かべることができるではないか。模型も図面も実験もいらない。頭のなかですべて本物のように思い描けたのだ。

My Inventions:The Autobiography of Nicola Tesla(1919)
The Problem of In creasing Human Energy(1900)
ニコラ・テスラ秘密の告白(2013)


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