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The Hanford Plaintiffs/Atomic Doctors ハンフォードの原告、アトミック・ドクターズ

2021年4月1日

仕事で読む本は、書評を書いたりするため内容が重なってはいけないかも、と、書かないでいましたが、記録を残しておくと便利なので、やはりちょこっと書くことに。

この2冊は3月に読んだものです。まず、トリシャ・プリティキンの「ハンフォードの原告」。これは以前読んでいたのですが、今回、とある企画のためにもう一度読んでみました。

友人でもあるトリシャからは直接話しを聞いていたものの、やはり一冊の本となると圧巻です。マンハッタン計画の牙城の一つ、ワシントン州ハンフォードでエンジニアとして働く父親のもと、そのベッドタウン、リッチランド市(例の高校のシンボルがきのこ雲であるところ)で育ったトリシャは、思春期を迎える頃から体の不調が続きます。

1986年にジャーナリストと住民の努力で、それまで機密扱いで公開されていなかった、ハンフォードにおける大量の放射性物質漏洩の記録が開示されます。しかも、その漏洩は意図的に実験として行われたものも含まれていました。これをきっかけに裁判が起こされ、トリシャも被害訴訟の原告となります。

この本の特徴は、弁護士でもあるトリシャの裁判における争点が分かりやすく解説してあるところと、その合間に25人の原告の話が入っているところでしょう。裁判時には発症していなかった原告もいますが、25人すべて深刻な健康被害を抱えています。

また、ハンフォードの裁判は、ネバダの核実験で被害を受けた「風下被ばく者」の裁判に依拠することもわかってきます。残念ながらハンフォード裁判は少数の被ばく者が補償を受けただけにとどまります。被曝補償法(RECA)も来年2021年の7月で打ち切られます。まだまだ、補償を受けられていない人が大勢いること。あるいはハンフォードなどでは、自分が被ばく者であることを言えない、あるいは自覚できない人もいるのがもどかしいです。

さて、もう一冊は歴史家、ジェームズ・L・ノーランによる、祖父ノーラン医師の回顧録であり、歴史書です。祖父を過度に英雄視することもなく、当時のマンハッタン計画における医師や科学者の役割、被曝被害を無視した政府見解に対する彼らの抵抗と同調、などがよく分かります。

ノーラン医師は原爆投下直後の広島にも行っていて1ヶ月以上経過しているにも関わらず、そこでの短い滞在の後、急性放射性障害に似た症状が出ます。これは彼だけではなく、チーム全員に起こったことでした。こうした体験や彼らが発見した残留放射能にもかかわらず、被曝被害は全く無視されます。

ノーラン医師と一緒に広島・長崎に行ったスタフォード・ウォレンでさえ、「もし、より慈悲に満ちた殺し方というのがあるとすれば、原爆はより慈悲に満ちたものだ」とさえ言うのです。(112)

この本が面白かったのは、なぜドイツや日本が原爆開発出来ていないことがわかった後でさえ、アメリカの科学者たちは原爆開発を続けたのか。つまり、原爆開発は対ナチで始まり、ファシストが開発する前にこちらが作らなければ、とうのが目的だったはずなのです。著者が明らかにするのは、科学的発見による好奇心やその時の興奮みたいなものが科学者を突き動かした、ということです。

後に原爆開発を後悔する科学者もいれば、全く後悔せず水爆へ、と邁進する科学者もいます。全て「国の安全保障」ということですが、ノーラン医師がマンハッタン計画後に関わった、マーシャル諸島での核実験が示すように、「国」には数多の「被ばく者」ーートリシャの本にも出てくるーーは入っていないことがよくわかります。

これを読むと原爆投下が戦争終結を早めた、というよりは、原爆を投下しなければマンハッタン計画が終結しなかった、ということが分かります。読み応えのある一冊。

ちなみに私が書いた「アトミック・ドクターズ」の書評はこちらから読めます。


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