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The Trouble with White Women 白人女性の問題

副題は「フェミニズムのカウンターヒストリー」です。その名の通り、フェミニズムとして、私が習ってきた多くの理論は白人女性による白人女性のためのものだということがよくわかる本です。

著者が4パージ目で言っているように、ホワイトフェミニズムの問題は「どういう問題を見過ごしてきたか、あるいは誰を考慮にいれていなかったか、ではなくて、ホワイトフェミニズムが何をしてきたか、そして誰を抑圧してきたかなのです。」単なる消極的な「考慮に入れなかった」ではなく積極的jにある種(人々)の言説を抑圧してきたことを鮮やかに描いてくれます。

例えば初期のフェミニストは、白人女性の参政権を有色人種の参政権よりも優先していた、とか1950年代のアメリカの世相を描いた著作(フェミニン・ミスティーク)で知られるベティ・フリーダンは公民権運動に反対していたとか。先住民のフェミニストの訴えを抑圧するマジョリティ・フェミニズムの流れがあったり、トランスジェンダーを糾弾していたり。

結局、中流以上の白人女性が白人男性と同じ権利を持つ運動として長らく君臨してしまった弊害が描かれています。これはつまり、男性と同じ権利、つまり資本主義を謳歌し、権力を掌握する、こうした制度に違を唱えるフェミニストの主張は抑圧してきた、と言うことなのです。

もちろん、全ての白人女性が。。。と言うわけではありません。ただ、家父長制と言う時、全ての男性に非があるわけではないけれども、そうした制度下では圧倒的に男性が恩恵を受けやすい、と言う現実があるように、フェミニズムの運動が白人女性にとって恩恵を受けやすい制度やシステムを享受する方向に舵をとってしまった歴史があります。

だからこそ、著者はイントロダクションでインターセクショナリティの重要さを説くのです。女性と言っても白人女性の体験と黒人女性の体験はアメリカでもかなり違う。また、裕福な黒人女性と貧困に喘ぐ黒人女性とでは、同じ黒人女性とは括れない体験がある、と言うように、違った要素を細かくみていくことで、差別の重層性が浮き彫りになるのです。また、そのほかの要素としては健常者か否か、といったことも重要なものでしょう。

ともあれ、得てして健常者で中流階級の白人女性の意見を「女性の意見」として受け取らないこと、また、その反動としてマイノリティ女性をヒロインとして崇めない、と言うことも著者は警告します。例えばAOCと呼ばれる、若くしてニューヨークの下院議員(それも、ベテラン議員を破って)となったアレクサンドリア・オカシオ=コルテスのような期待の新人女性議員にパーフェクトを求めがちな私たちの態度も戒めます。

これは私が今考えているマイノリティ、あるいは被害者をロマンチックに描く(romanticize)事象にも繋がります。

それにしても、今年はほとんど仕事以外の本が読めていないことに愕然としています。。。来年はもっと読みたいなぁ。


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