〈認知言語学ノート#07〉意味論①

 認知言語学は意味をどのようにとらえるのか。西村義樹・野矢茂樹『言語学の教室』(中公新書、2013)(以下、『認知言語学』と略す)でのある対話の様子から紹介する。

野矢「言語学のことなどまったく知らない人たちに、「ダビデはゴリアテを殺した」と「ゴリアテはダビデに殺された」は同じ意味だと思うか、と尋ねたら、どう答えますかね。「太郎が花子に叱られた」と「花子が太郎を叱った」は同じ意味か、違うか。」
西村「「違う」と答えるんじゃないですか?」
野矢「西村さんはもうだめですよ。認知言語学に汚染されているから(笑)。」

 語彙項目(用語③)が意味をもつことは言うまでもないが、文法項目(用語④)にも意味はあるのかについては、言語学者の間で重要な争点となる、そうだ。

 というのは、認知言語学では、文法は意味と分かちがたく結びついていると考え、これに対し、生成文法では、文法は意味から自律していると考えるからである。『認知言語学』では、次の能動文と受動文の対応を、生成文法と認知言語学の両者の観点から考えることから、このことを確かめていく。

例1)
・ダビデがゴリアテを殺した
・ゴリアテがダビデに殺された

・生成文法では、受動文と(対応する)能動文を同じ意味と考える。
生成文法が、2つの文は真理条件(=ある文がどのような条件のもとで真になるのか)が等しいとき同じ意味であると考えるからである。真理条件が等しい2つの文は、一方が真ならば、もう一方も真であり、その逆も成り立つ。

・一方、認知言語学では、この2つの文を、同じ意味でない。というのは、前者はその事態をダビデの行為として、ダビデを中心に捉えているのに対して、後者は同じ事態をゴリアテを中心にして捉えていると考えるからである。この捉え方の違いがどこからくるのか。認知言語学では、それは主語という文法項目が意味を伴っていることに他ならないと考える。(おそらくそれを中心に捉える、といった意味だろう)

 このように、語彙項目のもつ具体的な意味に対して、それらの組み合わせのパターン(文法項目)自体がもつ一般的な意味を、スキマティックな意味というそうだ。

 例1のような能動文と受動文の対応関係は、認知文法の創始者であるラネカーが認知文法(認知言語学において文法を扱う分野)を世に出すにあたって最初に扱った例の1つである、ということだ。このときラネカーは、能動文と受動文は多くの場合同じ事態を表せるが、同じ事態を表すからといって同じ意味だとは限らない、と述べている。(※このことについては改めて最下段で)では、主語以外だとどのような例があるか。

例2)
「そのトマトは赤い」と「そのトマトの赤さ」だと、前者はその対象(トマト)が赤いと言っているのに対して、後者はその対象の「赤さ」という性質が、その対象抜きに自存しているような感じがする。

 例2はまさに〈認知言語学ノート#06〉(品詞と意味)で扱ったことであり、その内容は品詞という文法項目のもつスキマティックな意味についての議論だったということになる!

~意味論②につづく(次回〈認知言語学ノート〉最終回の予定)

※文の表す「事態」について
生成文法による意味論では、「語や文の意味はその語や文が指し示している対象である」と考える。
例えば、「太郎が公園で転んだ」の意味を考えるとき、この文はどのような対象を指すのかというと、「太郎」は「太郎という人物」、「公園」は「公園という場所」…というようにそれぞれの語が対象を指した上で、文全体としては(何らかの規則によって)「太郎が公園で転んだ」という事態を指していると考える。

【参考文献】
西村義樹・野矢茂樹『言語学の教室』
中公新書、2013年

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