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〈認知言語学ノート#08〉意味論②&まとめ

1.意味の捉え方(例1)

西村義樹・野矢茂樹『言語学の教室』(2013、中公新書)=(以後、[言語学の教室]と表す)では、ラネカーが認知文法(認知言語学において文法項目を扱う分野)を構想し始めた頃に書いた論文で取り上げた次の例を紹介している。

例1)
①The clock is on the table.
②The clock is sitting on the table.
③The clock is standing on the table.

・①~③の文は、いずれも冒頭の写真のような時計とテーブルの位置関係を描写するのに自然に使える文になっている。しかし、どういった違いがあるのか、それぞれの「捉え方」を考える。

例えば、写真のような位置関係を示すのに、ともかく時計がテーブルの上にあることを言いたければ①のように、あるいはそれを、"sitting"と捉えれば②のように、"standing"と捉えれば③のように表現するだろう。

ラネカーは、①~③のように同じ事態を表している文でも、その事態に対して互いに異なる捉え方を適用しているため、それぞれ異なった意味をもっている、と主張している。
(前回の〈認知言語学ノート#07〉の、能動文と対応する受動文などの例も同様である。)

・一方、生成文法では、同じ事態を表している(=真理条件が等しい)文は同じ意味であると考えるのであった。

2.意味の捉え方(例2)

チョムスキー以降(1950s~)、現代言語学の重要なテーマは、私たちの言語使用を可能とするための必要な知識とは何かを知ることである。(〈認知言語学ノート#01〉)

では、次の2つの文は、(言語使用として)どちらが正しいといえるだろうか?

例2)
①昨日、知らない人が私に話しかけました
②昨日、知らない人が私に話しかけてきました

・日本人である私たちは①を不自然と感じ、②が正しいと言う。これはどうしてか?という問題に、認知言語学は次のような説明を与えることができる。

補助動詞「~てくる」という文法項目には、「相手が自分の領域に入ってくる」という意味が伴っている。

(本来、「~てくる」は動詞「来る」に由来する語彙項目であるが、これが心理的な距離に対する捉え方を表現する意味を残して、文法項目に移行したといえる(語彙項目、文法項目のそれぞれの意味については〈認知言語学ノート#03〉参照)。語彙項目に起こるこの現象を『文法化』という。ちなみに英語の助動詞『be going to~』も、語彙項目である動詞goに不定詞句toがついた表現が、goの「行く」の意味が薄れていき文法化した典型的な例である。)

したがって、日本人である私たちは、知らない人が「私に」対して話しかけたのであるから、②のように、「話しかけてきた」と表現する。

(では「私」に対してではなくて「私の犬」に対してだとどうか、「私の恋人」に対してだとどうかといった、ここから派生する[言語学の教室]での議論も面白い。また、個人的に思ったのは、「あなたは私に話しかけました」なら言えそうだ。この場合は、自分への接近を表すというよりは、相手の行為に焦点を当て、「あのとき確かに話しかけましたよね」と問う感じだろうか。)

3.文法の捉え方

では、例2)の①の文を、生成文法はどう捉えるだろうか。[言語学の教室]では、生成文法はそもそもこのような文を扱っていないだろうとしつつ、考察をしていく。

野矢「「知らない人が私に話しかけました」は言葉の組み合わせ方として正しくない。このことは、ふつうの日本語の使用者であれば誰でも認めるでしょう。生成文法の人でも。だけど、生成文法の立場からは、それは「文法的な」不適格さではないと言われる。つまり、「知らない人が私に話しかけました」は言葉の組み合わせ方として正しくないのだけれども文法的には正しい、とされる。
 他方、認知文法では、「知らない人が私に話しかけました」は文法的に正しくないとされるわけです。(後略)」

そこで、認知言語学と生成文法ではそもそも「文法」と捉えるものの範囲がそもそも異なるのではないか、という議論になっていく。
(なお、ここで問題にしている「文法」とは、語彙項目の組み合わせ方のパターンや規則という意味での狭義の「文法(項目)」である。一方、生成文法という語に含まれる「文法」は広義の文法なので注意が必要である。狭義・広義の文法については〈認知言語学ノート#03〉参照)

野矢「しかし、逆に、認知文法で文法的に正しいとされるのに生成文法では文法的に正しくないとされるような文などありません。つまり、認知文法が「文法」と呼ぶものの方が生成文法が「文法」と呼ぶものより広いんですね。
 生成文法の立場では、言葉の組み合わせ方の規則のすべてが文法と呼ばれるわけではない。そこには文法と、文法以外の組み合わせ方の規則がある。それに対して、認知文法は、語彙項目の組み合わせ方のパターンは一括して文法と考える。そんなふうに言えませんか。」
西村「なるほど。とても重要な指摘だと思います。」

4.文法は意味を持つか、という問いに対して、生成文法はどう答える?認知言語学は?

・生成文法の場合
[言語学の教室]では、狭義の文法において、生成文法は、たしかに、認知文法よりも、文法を狭く捉えていると言っていいとした上で、次のように述べられている。

西村「生成文法が文法(もちろん狭い意味での文法)の守備範囲と考えているのは、一般性の高い、適用範囲の広いパターンに限られるんですね。」

つまり、適用範囲の広いパターンに対して、文法(もちろん狭義)と呼べるものを適用するには、文法そのものに対する考え方を、比較的"狭く"捉えざるを得ない。
そして、そのような限定的な考え方で捉えられた文法において、
『生成文法における文法は意味を持たない』
ということになる。

・認知言語学の場合
一方、認知言語学では、文法的な知識を構成する単位は、語彙項目と同様にすべて一種の記号であると考える。

例えば「主語+述語」といった語順を形式とみたとき、その語順にスキマティックな意味が伴っているため、そのような文法項目を記号(形式と意味の組み合わせ)とみることができる。
(本来扱った語彙項目における形式と記号については〈認知言語学ノート#03〉、文法項目のもつスキマティックな意味については〈認知言語学ノート#07〉参照)

文法項目に対するこのような見方は、前回以前の認知言語学ノートで扱ってきた他の多くの例でも成り立つ。

例えば〈認知言語学ノート#06〉で、「美しい」や「美しさ」はどちらも属性を表す語であったが、両者の意味の違いは、「美」に関して、前者は形容詞としての、後者は名詞としてのスキマティックな意味によるものであったということだ。

では、認知文法は文法をどのように捉えているといえるのか。生成文法が適用範囲の広いパターンに対応するために文法そのものを"狭く"捉えているとしたのに対し、「言語学の教室」では次のように述べている。

西村「それに対して、認知文法は一般性が高くなくて適用範囲が限られていても、たとえば〈名詞句+give+me〉のような具体的な語彙項目を含むパターンも文法項目として認めます。
 さらに言えば、認知文法はこうした高度に一般的なパターンと個別性の高いパターンの間に厳密な境界線はないと考えます。しかも、言語習得においても現実の言語使用においても、後者のような個別的なパターンの方が基本的で典型的であって、一般性の高いパターンの方がむしろ派生的で非典型的だと考えているんですね。
 これは、認知文法が文法と意味を不可分と考えることの一つの帰結だと言えるでしょう。文法が意味と分かちがたく結びついていると考えるので、文法的なパターンが特定の語彙項目と結びついていることも自然に認められます。むしろ、特定の語彙項目と結びついて文法的なパターンが理解されることの方がふつうだと考えられるわけです。」
野矢「認知文法が「文法は意味と不可分」と言い、生成文法が「文法は意味から自立している」と言うとき、認知文法はまさに文法と意味が不可分になるようなところを求めて、「文法」も「意味」もできるだけ広く捉えようとする。それに対して生成文法は文法が意味から自立するようなところを求めて、「文法」も「意味」も狭く(潔癖に?)捉えようとする。そういうことなんですね。」
西村「そう言っていいと思います。」

5.認知文法によって扱えること

以上のことから、言語学は認知言語学の登場によって、様々な言語における様々な語彙項目を用いる言語表現を扱うことが可能になったと言える。

例えば、今回の例2「~てくる」の文法化についての説明は、語彙と文法の境界線が明確でなく、むしろ連続的に繋がっているとみる認知文法の捉え方によって可能な分析だと言える。

他にも、〈認知言語学ノート#02〉の最後に列記した、多義性や所有表現の問題もそうだ。これらの用法が生まれることは、語を、その語と何らかの関連をもつ知識のまとまり(フレームと呼ばれる)の中で、例えば発話者が、使用する語のもつフレームのどの特定の部分に焦点を当てているかを分析することによって、動機づけされることがわかる。(これらのことは[言語学の教室]の第3章以降で百科事典的知識や、メトニミーなどといった用語によって説明されるが、ここでは割愛する。)

<認知言語学ノート>は今回で最終回だが、今後はこれまでまとめたものを元に、多義性とも関わりが深い「メトニミー」や私たちの概念体系の基礎となっている「メタファー」といった私たちの日常の経験を通して得られる概念が、私たちがごく日常で発する言語の中にどのように息づいているのかを確かめながら、自分なりにじっくり学習を進めていきたいと考えている。

6.あとがき~という名の釈明と決意

最後になるが、おそらくここまでお読みになって下さった方はほとんどおられないと思うが、#08まで続いたこの〈認知言語学ノート〉のあり方についてである。

もともと、このノートは個人的に認知言語学の勉強をしていく中での、自分自身のためのノートとして、要点をまとめるために始めたものであった。しかし、その内容は、西村義樹・野矢茂樹『言語学の教室』や池上嘉彦『意味の世界~現代言語学から視る』を、参考文献にしているといいつつも、引用を大いに含んでいて、それを自分の表現に含めてしまっているのはどうかという意識と、そもそもそのような学習の仕方をする意味があるのかという意識が芽生えていた。

それが一区切りとなったいま、これらのことは後者に関しては、結果として、どんな言葉であれ(一度自分の中に落としこんだ上で)アウトプットすることで、自分の理解の足りていない部分に気づき、より理解を深めていくことができたという点では良かった。

そして、いま、前者の問題については、次なるプランを考えている。言語学の学習はしたい。しかし、公開するものである以上、たとえ誰も見ていないとしてもそれは自分の言葉でなくてはいけない。そこで次回以降、学習で得た知識を活かす、より実践的な取り組みをしたいと思っています。

とはいえ学習とは、本来、このようにノートにすることがすべてではない。単なるモチベーターのようなものになるかもしれないし、(個人的な)活発な議論を含んだものになるかもしれない。

それでも、私が言語学の本を読むに留まらず、このようにノートにしてみるのと同様に、たまたま目に留めてくださった方にとっても、読むだけでなく自分なりにあれこれ考えるきっかけになれば、これ以上のことはないほど幸いです。

こんな長いノート書いたことありません。
お見苦しい駄文、大変失礼いたしました。

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