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ウィリアム・モリス ージェフリー・チョーサー作品集ー

誰もが息を飲む圧倒的な装飾美、黒と白のコントラスト、美しい書体、緻密な挿絵。どれをとっても非の打ちようがない、この本の名は「ジェフリー・チョーサー作品集」という。モリスが創設したケルムスコット・プレスの最高傑作ともいえる作品であり、私が世界で一番美しいと思う本だ。

下記の2つの図版はウィリアム・モリスがこの作品集の為に制作した飾り文字「W(whilom)」のデザイン原画とその試し刷りである。細かいツタが無数に絡み合い、この時代特有の柔らかな丸みを帯びた書体が非常に美しい。さすがはアーツ&クラフツ運動を起こしたモリス、といったところである。


この作品はウィリアム・モリスとエドワード・バーン=ジョーンズ(ケルムスコット・プレスでモリスとともに数多くのデザインを手がけた人物)の共同制作である。文字と装飾をモリスが受け持ち、物語の挿絵をジョーンズが描き出す。彼らはオックスフォード大学在籍時に作家ジェフリー・チョーサーの描く世界の虜となった。そのため、ケルムスコット・プレスの作品の中には、ジェフリー・チョーサーの物語をテーマにしたものが多く見られる。

この作品の優れたところは、その完成度とアーツ&クラフツ運動を先導するモリスの思想をしっかりと反映していることにある。この作品はモリスの人生の集大成ともいえるのだ。

アーツ&クラフツ運動は近代のデザイン運動の中で、最も影響力が大きく、広範囲に及んだものといえる。1880年頃、イギリスで発足したこの運動は、すぐにヨーロッパ中に広がり、日本でも民芸運動の中でその思想を志すものが現れる。
それまでの運動との違いは、先駆的な改革の姿勢や、デザインや素材を追求し、より生活の中に結びつけた点にある。
この運動が生まれた背景にはイギリスの産業革命から続く、産業化社会があった。工業生産と規制のない商業がもたらした弊害は深刻なもので、社会には粗悪な品が溢れていた。これを見て、イギリス政府がデザイン政策を講じて品質の向上を図るも、この社会状況を打開するには至らなかったのである。そして1860年代から70年代、ついに事は起こる。新世代の建築家とデザイナーが台頭し、デザインと装飾芸術に対する新しい取り組み方を開拓し始めたのだ。
この運動の中心には、常に職人の役割をめぐる問題意識がある。アーツ&クラフツ運動の影響を受けて作られた作品には、モリスが活動初期に提唱した「同胞意識と職人精神」という共通理念が見て取れる。モリスにとって「優れた作品」とは、用途に沿って特別にデザインされたものであり、「美」とは献身的で実直な労働から自然に結実するものであった。これらの思想は、それまでの粗悪なデザインの改良や、芸術の制作条件や手順の改善をする上で哲学的基礎となった。「満ち足りて尊重された労働者は、必然的に優良品を生み出し、その結果、より幸福で美しい世界が創りだされる」とモリスは信じたのだ。ただし、今日からみれば、この思想には非常に理想主義的な面があり、これに沿って作られた製品はとても高価で、実際に工業化がもたらす弊害の一番の被害者である一般階級の人々の手には届かぬものになっていた。当時の中期ヴィクトリア朝イングランドにおいても、このことを批判する者があったが、それでも多くの人々がモリスの提唱する改革実現のために模索を続けていったのである。

モリスの思想の源となっていたのは少年期の古代墓地遺跡との出会いや、青年期の文学と田園への敬愛だ。そして将来の目的や志望を固めるこの重要な時期に、彼はジョン・ラスキン(評論家)の『ヴェネツィアの石』という本に出会い、生涯「新しい福音書、ゆるぎない教義」として自らの典拠に位置づけたのである。

アーツ&クラフツ運動の他にもマーシャル・フォークナー商会での家具や建築に対する試みや、政治的な活動、詩人や翻訳者としても成果を上げたモリスはそのどれをとっても後世に名を残す多彩な才能の持ち主だ。それでもなお、アーツ&クラフツ運動の「父」と呼ばれる所以は、このジェフリー・チョーサー作品集の実物をご覧いただければ、言わずともわかってくるはずである。現代に通ずるデザインの根底を基礎からつくりあげたウィリアム・モリス。手作業の素晴らしさを追求し続けた彼の功績は、今、私たちの生活の中にきらきらと輝いている。

(2009 近代デザイン史夏期レポート課題より)


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