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『地球星人』

久しぶりの村田沙耶香。高校生のときに好きになって、当時授業も聞かずに必死になって読んでいた。最近は小説自体あまり読まなくなってしまったけれど、先日母と買い物していたときにたまたま見つけて購入。「こういうのは出会いだからね〜」と言い訳をしながらさくらももこと谷川俊太郎のエッセイまで買ってしまった。金欠だというのに。

『地球星人』は読み始めてすぐ「そうそうこの感覚…!」と、村田沙耶香の本を読んでいたらいつも陥る絶妙な不快感を感じた。1つ1つの描写に微かな違和感があって、それが読み進めていくごとに積み重なっていく。主人公はいつも少し変わり者だけど、その子が変わり者になっていくには十分すぎる背景が緻密に繊細に描かれていて、それがとても不安で不快で好き。

『地球星人』の内容は驚くほど今の私にぴったりだった。性、家族、労働、対人関係、結婚、出産。大人になればなるほど、それらの様々な項目には「正解」が存在していることを知る。そんな「正解」を刷り込まれる日々が少し辛いと感じる今日この頃。私が「社会の正解」を教えられる場の多くは友人からだった。

「この歳になって彼氏いないのやばくない?」「社会人にもなって一人暮らしなのやばいよね」「家族と不仲なのは結局その子がわがままだからだよ」「低収入なのは本人の努力不足」こんな調子で自らを自虐したり他人を断罪する友人たちの言葉を聞くたび「そういうものなんだ」と感心すると同時に不思議に思ったりもする。今までは仲良くできていた人たちが急に別人のように見える感覚。本人ではなく社会そのものと対峙しているような不思議な感覚。大人になるというのは怖い。

だから地球に住む人々を「地球星人」と総称する主人公の気持ちはなんとなく理解できたし、ふわりと安心できたりもした。それでも主人公・奈月の家庭環境がもう少し穏やかだったら、塾の先生が別の人だったら、奈月を断罪せずにいてくれる友人がたった1人でもいたら、生まれ育った環境が少しでも違ったら、あそこまで地球星人に憧れずに済んだのではないかと思った。(地球星人に憧れる奈月がダメかと言われたらそういうわけでもないのだけれど…)

後半あたりは理解すらできず。それは私がなんだかんだ言って環境に恵まれているからなのかもしれない。私自身の感覚に、良い意味で無関心な人たちに囲まれている私は、わざわざ地球星人には憧れないし宇宙人に近づこうとも思わない。

奈月たちの気持ちは真っ当なものだと思った。私自身はとらない手段ばかりだったけれど、思考や行動そのものは真っ当で正しいと思った。話の終盤は私の理解の範疇を越えSFのようで、でもそれは私が地球星人そのものだから理解できないのだとも思い、奈月たちと同様の価値観を持った宇宙人を探すためレビューサイトを開いてみた。
するとレビューサイトには奈月たちを断罪するコメントばかりが並んでいた。奈月たちの思考や行動を「幼い」「拗らせてる」「変わり者のふり」みたいな、わかりやすく下に見た、バカにしたような口ぶりの感想ばかりが並び心底嫌な気持ちになった。同じ本を読んでいてもこうも感覚が違うのかと。私は奈月たちがああやって宇宙人として過ごした日々を、人生を、幼さや拗らせゆえの愚行だとは思わなかった。1つの正しさだと思った。だからその正しさを、私が地球星人であるばかりに理解できないことが恥ずかしかったのだ。

当人にとってのある種の正しさを恐怖するならまだしも、理解も共感もせずに「社会的正しさ」を武器に断罪することこそ、一番の幼さじゃないかと思った。『地球星人』を読んで、読んだ後のレビューサイトを見た瞬間こそが、一番『地球星人』を感じた時間だったように思う。

また村田沙耶香の本を読み直したいなと思った。主人公たちを軽蔑もせず共感もできない自分を、恥ずかしがりながらも大切にしていきたいと思った。

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