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被災してわかった命の重さの違い

能登半島地震が起きてから、近くの小学校に避難した。母校だ。
電気が来ていた。停電している場所が多い中、ありがたい。ただし、水はない。電波状態も悪い。格安スマホをうらんだ。緊急地震速報も通知が来たり、来なかったり。娘に契約し直してと言われる。そうだね、いつか追いついたらね。いま必要な機能なのに遅いけど。

避難所には電気しかない。自宅から布団や毛布を持ち込み、体育の授業で使うマットを敷いて場所を確保する。すでに満員の状態だ。持ち込んだ荷物を広げ場所取りをする。いけないんだろうけど。

愛犬は避難所に入れない。たぶん。体育館の外でペットと共にたたずむ人が何人かいる。寝るときは車の中に入れるしかないか。

夜、体育館のステージから声が上がる。
「安否のわからないお年寄りがいるので、どなたか手助けをお願いできませんか。無理のない範囲で結構です」

ぱらぱらと手が挙がり、近寄る人が現れる。

道路は陥没、マンホールは隆起して、通行の安全は確保できない。消防に電話しても現場には来られないだろう。市内全域が被災しているのだ。しかも隣町は大火災で、避難所からも火の勢いが確認できるほど。

この世の終わりが来たと思った。

この状況で、高齢者を心配し、有志を募ることは本当に尊い。自分がどうなるかもわからないのに、他人を思いやる。数名で何度か現場へ向かったようだ。

板で作った担架で、高齢者が運ばれてくる。
到着しても寝かせるだけだ。救急車も来ないし、医療関係者もいない。医薬品もない。雪の降る寒い夜だったので、毛布を多めに掛けるのが精一杯できることだ。けがをした人もいるようだった。

数日すると居なくなったので、他の場所に移されたと思う。

人の命は何よりも優先されると思っていた。
平時の考えだった。
非常時では、まずは自分が生き延びることだ。

隣町の火事では、道路が隆起・大津波警報が発令・復旧見込みのない断水・停電で消化の目処がたたないことはすぐにわかった。せめて逃げられる人は逃げて欲しい。マンパワーがあったとしてもできることは少ない。この火事は数日間続き、地域一帯を燃やし尽くした。

助ける術がない命がある。
人の命は地球より重い、職業の貴賎はなく平等だ。といってもできることとできないことがある。

自衛隊のヘリが飛び続けているが、状況把握のためであり、救出活動ではない。明日以降に人員が投入されるのだろう。一刻でも早い救出を祈った。祈るしかない。

避難所では水も食糧もない。支援物資や仮設トイレが届きはじめたのは三日後だった。まずは、傷病者の救出や行方不明者の捜索が先だとわかっていても、支援は欲しい。避難所の存在が忘れられていないことを願う。

命の重さは平等であるべきだが、できないことは確実にある。
発災時は、救出も大事だがいま生きている命を消さないことも必要だ。
私も身内で命を失ったので無念だ。
亡くなることと生き延びることの差は何だろう。それすら自分の意志では選べない。

東北大震災では、私より困っている人を先に助けてといった人が報道されていた。能登半島地震でも倒壊した建物に閉じ込められている親が子どもに、津波が来るから先に逃げて、と言ったと報道されていた。

亡くなった人の分まで生きようとか、生きる価値が私にあるとは思わない。多くの命が失われたのにどうして自分が生き延びたのか、意味がわかる日が来るのだろうか。
もやもやした感情が整理される日を待っている。

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