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「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」の謎が映画で解けた

好きなことを(仕事に)生かせるなんて、人生舐めてる

主人公の山音麦(やまねむぎ)は、事務の仕事を辞めてイベント会社に転職しようとする八谷絹(はちやきぬ)に言い放つ。映画「花束のような恋をした」を見ていた私は、何カ所も身体を撃たれたように「イタタ・・・」とうずくまった。

確かに仕事が忙しい時期には、本を読む暇がない。好きなテレビ番組を見る暇もない。朝まで持ち帰った仕事をし、気付いたら寝ている。起きたらパズドラ。そんな毎日にうんざりしていたことを思い出した。

仕事は遊びではない。真理だ。生活するために嫌な仕事も我慢する。就職してすぐは、自分のいる場所はここではない、と言い続けるがその思いも無くなっていく。なぜか。仕事に直接役立つこと以外は、ノイズとして受け入れなくなるからだ。

ここまで読んで、このnoteは表題本の書評ではないのかと疑問をもってくださったあなた。もう少し話を聞いてほしい。

「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」の著者は、文芸評論家で書評家。古典の解説も行っている。私は枕草子がのんきなつぶやき集ではないという説明を聞いて驚いた記憶がある。アイドルやドラマが好きなのも、公式Xをフォローすれば分かる。

この本では、なぜ現在は本も読めないような仕事社会なのかについて、明治時代の労働感から紐解いている。学術論文のような資料の山が読み応えある。それでいて、読みやすい。著者が意図的に行っているに違いない。

2010年代までの世相と労働感や読書を取り巻く価値観を概観した後、現在ではなぜ本が読まれないかについて著者の持論が展開される。本の雰囲気ががらりと変わるのが不思議だった。学術論文がエッセイに変わったかとも錯覚してしまったからだ。

理由は、この本が映画「花束みたいな恋をした」を強烈に意識して書かれているからである。なぜ麦は絹と話が合わなくなったのか。共通の本やゲームを楽しめないほど、仕事に忙殺されてしまったのか。趣味を仕事に生かすことを拒否するのか。

本を読むまでは、仕事は厳しいから学生とは違うよ、くらいの感想しか持てなかっただろう。しかし、著者の視点は超越している。本を読めないような社会は間違っていないだろうか。まずは社会的背景を理解して、これからどう社会を変えていくべきか。単なる理論を超えた強い思いがあった。著者はあまり本を読まないような読者にも分かるように延々と説いていたのだ。説明の過程で、明治からの時代性やカルチャー論にも触れて、ともすれば普段接することのない知識も与えてくれる。壮大な構想のもとに書かれていた。

この本は、脱仕事人間を説く本ではない。仕事に全身全霊を傾けないことで、長期的には仕事のパフォーマンスが上がることを力説している。3カ月連続で本を出版するような、仕事大好きな著者が提唱する半身社会。映画を見ていっそう納得した。

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