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(その2)「対話」は手段か目的か

最近気になる本が出版されました。全国で地方財政と対話を伝導している著者の待望作です。

これを読んでいて気になっていたことがありました。
○対話が目的ではないとされながら、多大なスペースを割かれているのはなぜか。
○話すのが得意でない人はどんな役割を担うべきか。
この2点について考えていました。

対話は「語る」ことと「聞く」こと
それぞれ「開く」ことと「許す」こと
とも定義しています。

そのためか、対話で「いてもいなくてもいい人はいない」と言ってくれているところがこの本の好きなところです。
人前で話すのが苦手な私にとって救いの言葉です。
参加者が口を開きやすい場をつくる、心理的安全性のために、そういう人がいてもいいと書かれています。まさに「赦されている」感覚です。

そして、後半の第5章では熱い主張が繰り広げられます。
「まちのエバンジェリスト」として、自治体職員は対話が必要であると。

対話だけでは物事は決まらない。
議論の前に対話を置き、対話の前に雑談を置く。
最初の一歩の地慣らしのために、まず対話に取り組むべきなのでしょう。
対話は手段でももちろん目的でもなく、あって当然のものとして存在すべきと説かれています。

ここで居てもいいと「赦された」いわゆる「聞くのが好きな人」の役割はどうなるでしょうか。
自分から積極的に住民を巻き込んでいけない人は「自治体職員失格」なのでしょうか。
ここからは個人的な感想です。
自分から積極的に情報発信することによる場づくりをしなくても、話をよく聞いてくれる、居てホッとする雰囲気作りも大切ではなかろうかと思うようになりました。
対話は物事を決める場ではなく、議論の前段階なのだからそんなに肩肘を張る必要はないと考えると腑に落ちました。私なりの解釈です。
これが今日現在の結論なのでまた寝かしてみます。

最後は余談です。
著者が意図したかどうか分かりませんが、次の二冊が下敷きになっている気がするので、自分用のメモとして残しておきます。


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