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【架空の本棚】矢坂志鶴『立夏の爪床』

ボンチノタミ、ジョーカーです。

今日は矢坂志鶴(やさか・しづる)著『立夏の爪床』(りっかのそうしょう)を紹介したいと思います。

※架空の本棚は、実在しない本の紹介文や感想を書く記事です。作者も本も実在しません。

矢坂志鶴『立夏の爪床』表紙

あらすじ

高校3年生の華(はな)は、受験を控え窮屈さを感じていた。
季節は立夏。思い通りにいかない模試の結果、治らない爪噛み癖。
思春期の葛藤と一歩踏み出す小さなきっかけを描く、ある受験生の青春物語。

『立夏の爪床』あらすじ

主人公は、高校3年生の女の子・華。
勉強も恋も家族や友達との関係も、うまくいかないわけではないけれど、どこかモヤモヤした気持ちを抱えたまま過ごす高校最後のゴールデンウィークから夏休みまでの様子を描いています。
特別不自由なわけでもなければ、特別つらいことがあるわけでもない、けれどどうしてか気分が晴れない……そんな日々を過ごす受験生の心情を瑞々しく表現した作品です。

矢坂志鶴さんはこういった10代の少年少女の青春の葛藤やそれと相対するような爽やかさを味わえる作品が多く、こちらもどこか懐かしく、甘酸っぱいような気持ちになれる読後感が心地好い一冊です。

登場人物

糸川 華

本作の主人公、真面目でおとなしい性格のいとかわ・はな。
高校3年生。大学受験を控え、勉強に励む毎日を過ごしているが、模試の結果も微妙な判定を行ったり来たりで悩んでおり、家族からもなんとなく気を遣われている気がして会話がぎくしゃくしてしまったり、友達に対しても今までなんとも思わなかったようなことでいらついてしまったりと、些細なことで心が浮き沈みしてしまうような、ため息の多い毎日を過ごしている。
子どものころから爪を噛む癖があり、それがコンプレックス。受験のストレスで余計に爪を噛むようになってしまい、それがさらにストレスになっている。
1年生のころから恋をしている同級生がいるが、どうせ相手にしてもらえやしないと諦めている。が、本当は想いを伝えたくてモヤモヤしている。

琴吹 美里

華の友人、清楚で静かな性格のことぶき・みさと。
高校3年生。華とは何でも話せる友人で、お互いに一緒にいると落ち着く、言葉は少なくとも互いに想い合っている関係。
実は華のことが恋愛対象として好きだが、その気持ちを最後まで伝えることなく卒業していく。
ストレスでいっぱいいっぱいになっている華のことを心配しているが、うまく励ますこともできず、いつの間にか少しずつ遠くなってしまったふたりの距離に寂しさを感じている。

大道 陽介

華の想い人、剣道部主将のたいどう・ようすけ。
高校3年生。明るいムードメーカーで成績も優秀、華からすれば「勝ち組の人」という憧れの存在。
陽介自身は華のことはただのクラスメイトとしか思っていないが、真面目でしっかりした子だなという印象を持っている。
剣道一筋だったため、恋愛事には無頓着。

印象的なシーン

恋のきっかけ

「あれ、糸川さん」
 教室に残って日誌を書いていると、ドアのほうから大きな声がした。
 それが大道陽介だった。
「なにやってんの?」
 どうやら、部活の忘れ物を取りに戻ってきたらしい。
「日誌。まだ連絡事項が全部書けてなくて」
「真面目だね。俺、そういうの適当に書いちゃう」
「だって、日直の仕事でしょ」
「あーあ、俺の日直のときも相手が糸川さんだったらいいのにな」
 忘れ物の着替えをロッカーから取り出すと、そう言い残して陽介は去って行った。
 このクラスになって数ヶ月、一度も話したことはなかったのに、彼は自分の名前を覚えてくれていたらしい。
 ほんの少し言葉を交わしただけなのに、華は鼓動の音が大きく、速くなった気がしていた。

『立夏の爪床』80ページより引用

高校1年生のころ、華が陽介のことを意識するようになったきっかけを回想するシーン。
一緒に日直をしていた男子は部活があるからと先に行ってしまい、真面目な華はひとりで教室に残り日誌を書いていました。
そこへ忘れ物を取りにやってきたのが陽介で、自分とは真逆(華は自分はいわゆる陰キャ、陽介は陽キャだと認識していた)の場所にいる陽介が自分の名前を覚えてくれていたこと、あまり自分でも好きではない真面目でおとなしい自分の性格をほめてくれたことが嬉しくて、この後、つい陽介を目で追ってしまうようになっていきます。

とはいえ、想いを伝えるほどの勇気も自信もなく、クラスの女子と話す姿を見ては勝手にモヤモヤしてしまう、というような状態がここから3年間続いていくわけです。

美里の想い

 図書室の入口に、美里が立っていた。
 いつから待っていたのだろう。外はもうすっかり暗くなっている。
「華ちゃん、一緒に帰ろう?」
 いつもと変わらぬ笑顔で、美里はそう言って華の手をそっと握った。
 どうして自分は、彼女のことを邪険にしてしまったのだろう。彼女は何も悪くないのに、羨ましくて、妬ましくて、大好きなのに嫌いになってしまって、だから、自分から遠ざけてしまった。
「ごめん」
 思わず口をついて出た言葉が、堪えていた気持ちをすべて溢れさせる。
 流れてくる涙の理由を聞かないまま、美里はもう一度強くその手を握って笑って見せた。
「大丈夫だよ」
 自分の想いを隠したままでも、華の隣にいられる。自分だけは、華の負担になりたくない。だからこれからも、ずっと笑って隣にいようと、美里は決めたのだ。

『立夏の爪床』53頁より引用

クラスの友達ともうまく話せなくなり、ついにはいちばん仲の良かった美里に対しても冷たい態度を取ってしまった華。
いつもはふたりで勉強していた図書室で、ひとり、悩みながら、もがきながら勉強を続けていました。
そんな華の前に、いつもと変わらぬ笑顔でやって来る美里。その存在の大切さに改めて気付いたとき、華は少しだけつらくて苦しい心を美里に預けられるようになります。

このシーンの少し前に、美里が華に恋をしているという描写が出てきます。
美里自身も思い悩んで、自分が華の隣にいてもいいのか、純粋な友情とは違う気持ちを抱いたまま友人でいられるのか、と葛藤します。
最終的に自分の想いを伝えずに隣にいることを選んだ美里の「大丈夫だよ」という言葉は、華だけでなく自分に向けられたものでもあったのでしょう。

晴れやかな華の表情

 立夏を過ぎて、もうどれだけ経っただろう。ようやく夏らしい陽射しが自分の体と心にもじわじわと届き始めてきたような気がする。
 まだ、夏はこれからだ。勝負はこれからだ。自分の未来は、まだまだこれからだ。
 悩みがすべて消え去ったわけではない。それどころか、前よりもずっとぐちゃぐちゃになっているかもしれない。それでも、爪噛み癖は治った。
 今なら、すっかり伸びた爪でこの息苦しさを引き裂いてしまえそうな、そんな気がした。

『立夏の爪床』96頁より引用

もうすぐ夏休み、というころ、華はこれまでの様々な経験を思い返して、ひとつの気付きを得ます。
勉強に、恋に、人間関係に、と悩みに悩んでいたのが、ある意味、吹っ切れたのでしょう。
正確には、全部が吹っ切れたわけではありません。受験生としての悩みはまだまだ尽きず、思春期の少女の心は完全には晴れていません。

けれど、ずっとコンプレックスだった自分の不揃いな爪と初めてきちんと向き合うことができたのです。そして、華は爪を噛むことをやめました。
伸びた爪を見て、ひとつ、自分が変われたことに気付いた。そして、これから歩いていく未来が無限に広がっていることに気付いた。

小さな変化だけれど、彼女にとっては大きな変化だったのでしょう。
そうして、物語は高校最後の夏へと収束していきます。

架空の本棚

というわけで、今回は矢坂志鶴著『立夏の爪床』を紹介しました。
興味のある方は読んでみてくださいと言いたいところですが、こんな本もそんな作家も存在しません。
ありがとうございました。


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