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助けられて生きる

        (約1,000字)

今日は仕事で、電話を途中で切られてしまった。

それでも10分ほど説明をしたり、相手の判断を待ったり、知恵を絞ったのだった。

日が落ちてからアルバイト学生が来て、
先日とった急な休みを詫びた。
「そんなに忙しくなかった日でしたよ」
と体調の心配をしてくださった。

トイレに離席してからデスクに戻ると、彼は
何やら頭を抱えながらも長い間、話をしていた。20分以上かかって、私が昼間、注文に至らなかったお客さんの相手をしていたのだ。

「仕事した、って感じです。疲れた」
と言いながら、ペットボトルの水分を摂っていた。

「大変だったでしょ。こればっかりは場数を踏むしかないんだよね。
すごいね、私は途中で電話きられたよ」 
と、労をねぎらった。

私は転職してばかりいるから、後輩の指導もするし、若い人から教育を受けることもある。

喫茶店での給仕で常連さんのテーブルに飲み物をこぼしたり、関西の方から「レイコー」とオーダーされて困っていたら笑われたり。

役所の窓口に反社会的な方が来て、足がすくんでしまったり、ストーカーに追われた女性がカウンターに来たときは警察官に来てもらって引き渡す場に遭遇したり。

本屋で万引き犯を店長に報告して、まるで自分が盗んだかのように心臓がドキドキしたり。

自宅兼事務所の会社では、昼間に社長が入浴した後に背中に湿布を貼らされたり、
宴会で絡まれてセクハラを受けたり。

細かく書けば、まだ倍くらいのエピソードがあるが、私は困難に遭っても、必ず助けてくれる人がいらした。

ロクな目に遭っていないように思える人生かもしれないが、窮地に立たされたときに、
誰かが手を差し伸べてくれる。

何が支えになるかって、結局「ひと」なんです。
自分が日頃に得ていた信頼が、
辛いときには、かえってくる。

どんなに自分が頑張ったところで、一人でやれることなんか、たかが知れている。
頑張りを労り合えない関係なら、どこに居て
何をしようと続かないんです。

誰かが自分を見守ってくれていたとしても、
それを同じ量だけ返さなければ、
自分のところに優しい視線はもらえない。

手を貸してくれる人をみつけたら、自分から
その人の支えになることをしてあげて、
初めて手を繋げるんです。

社会って、そういうものです。
仕事は、noteの世界より厳しい。
お給料をもらうのだから当たり前です。

その世界で生きられるように皆、必死です。

仕事は身体さえ元気だったら
いくらでもできるから大丈夫です。



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