わるいことしたい。

わるいことの魅力は、自らの心の中に「わるいことだから」という思いがあるからなのか。背徳の魅惑があるからなのか。

それとも本質的には「わるい」ことなどでは決して無いのだけれど、現社会的な規定において、たまたま「わるいこと」に成っているだけの事なので、自らの魂が求める本質の証明、告発とも言うべき衝動なのだろうか。

とにかく私にとっては「わるいこと」を企てたり、想像したりすることが、物心ついた頃からやめられない甘美なことである。が、情けないことに実行する強さが無い。

それを実行する人間には尊敬の念を憶える。「とんでもないことする奴だな!」と世間と同調したりするフリはしつつも、内心では「こいつは大した奴、よくやったな、凄い。」と認めている。悔しがっている。

おそらく世間の方々も、そのような想いがどこかに(無意識に)あるからこそ、「わるいこと」を非難したり、憎んだりするのではないだろうか。

悪魔がいなければ天使も嘘くさいし、悪役の出てこない映画は薄っぺらい。正義が魅力的な正義として存在する為には憎たらしい悪が必要であるし、悪には理屈も通らないような無意味や破壊性があり、その暴力的な破壊は創造に繋がる。我々地球上の生命は、太陽内部の核融合によって生じる熱や光の恵みに頼って生きているようなものだが、その父親でもあり母親でもある太陽のすぐ側にいっては一瞬で燃えてしまう。遠く離れているからこそ、なまやさしいことを言ってお天道様と讃えて親しみを感じているけど、本当は恐ろしいし、近寄ることもできない強さの悪でもある。まともな感性を持った人間ならば、悪に憧れて当然なのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?