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『〈現代の建築家〉白井晟一』鹿島出版会、1978


建築家、白井晟一(1905−1983)の作品集です。ずいぶん前に、南洋堂の店頭で購入しました。

白井晟一先生の遺した、観念的でありながら、肉感的な空間に、憧憬をいだく建築ファンも多いことでしょう。

白井晟一建築のなかでは、渋谷区立の松濤美術館が足を運びやすいです。手前の東急文化村も、数年後から改修計画が始まるようですが。

個人的には、写真でしかみたことのない自邸、虚白庵に心惹かれます。

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写真の中の虚白庵には、室内のそこかしこに、塑像が飾られています。人像をおいて、こんなにもしっくりくる個人住宅って、なかなかないのではないか。では、なぜ、そんなふうにしっくりくるように見えるのだろう。

「私は相互にほとんど無関係なさまざまなディテールとシーンをとりだす彼独自の手法を”晟一好み”と呼んだのだが、そこに呼び寄せられた物体が、無縁な地点に点在したものであればある程、不連続がうまれ、迷路的になるのである。近代建築が建築の構成諸要素が独自に喚起するさまざまなメタファーを圧制し、物体または物質そのものに還元したうえで、新たな構成を開始したときに避けがたく通過せねばならなかった抽象化という作業を、白井晟一は最初から回避していたのである。」(磯崎新「破砕した断片をつなぐ眼」p. 78)

磯崎先生の指摘する「不連続で迷路的な空間」が、方向感覚を失わせる不明瞭な場所であるとすれば、内省へと向かわせると同時に、閉ざされた場所からの開放を希求する特性を持つ気もします。そうであれば、私たちは、彫塑の「顔」に見出される肉感性や官能性を通して、ある種の開放を希求しているのかもしれない。

人は、人間の似姿としての塑像に対し、その表情や質感を通じて、過去と結びつけることが多い気がします。特定の誰か、何か、というよりも、どこかで見た表情や空気感を集合的な記憶のうちに、うっすらと見いだすというか。室内の塑像は、展示された空間を特殊化するのかな、とも思います。記憶の中の空間は、その性質として、暗く、遠く、小さくありながら、虚のなかに無限に広がるので。

埋没した記憶を喚起する装置として、白井晟一先生の迷路的な空間があるとすれば、アールのきいた造形性や質感が、内向的でスノッブな印象の一方で、閉じられた感応性や肉感を開放しようとする方向性において、外部に対して放出的になる、そんなふたつの力がせめぎあい、みえない律動が生まれるのかもしれない。

塑像のある空間としては、ピーター・ズントー先生のコロンバ教会ケルン大司教区美術館の展示室を思いだします。コロンバ美術館は、採光が豊かにとられており、現代都市の健全な明るさをたたえていました。一方で、戦時中に破壊された教会堂遺構部分と保存された塑像たちとあいまって、深く沈んだ記憶を喚起する空間づくりがなされており、訪れた誰もがその場に立ちつくしてしまいます。美術館と住宅の違いがあるとはいえ、そこに安置された塑像は、過去の時間と通じる小さな虚空たりえるかもしれない。

前掲の磯崎新先生による白井晟一論や、大江宏、藤井正一郎、宮内嘉久各先生による鼎談も、しごく興味深いです。モダニズムか非モダニズムか、合理か非合理か、という二元的な議論には回収しえない白井晟一の建築の特異性について語られています。白井晟一先生の建築を語りつくすための語彙とはなにか、虚空をつくような議論が繰り広げられています。


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