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風景としての抽象画:「すばらしき世界」

映画サービスデイにのって西川美和監督「すばらしき世界」をみてきました。

殺人罪で服役していた元ヤクザが13年の刑期を終え、出所後の社会生活でもがく姿が描かれています。

西川映画では、「蛇イチゴ」の香典泥棒(宮迫博之)と「ゆれる」のガソリンスタンドの店長(香川照之)はすばらしく印象的です。田舎町で、目立たないけど小器用で、どこかうさんくさい人物が、追い詰められた瞬間に浮かべる表情を捉えるのが、天才的にうまい。ベテラン俳優の技量もあると思うけれど、いつまでも心の記憶にこびりつき、忘れさせてくれない映画空間へと結びつけるのは、監督としての映画的才能なんだろうな、と思うのだけど。

そんなわけで、「すばらしき世界」を期待をこめて見に行きました。物語ももちろん面白かったですが、とくに今回引きつけられたのは、冒頭のショットでした。

スクリーンに最初に現れたのは、白と灰色のグリッドに、白いまだらの点がふきつける画面。カメラは徐々に引いていき、それが、雪深い旭川刑務所の灰色の窓ガラスに吹きつける風雪であることが明らかになります。

屋外の風景を抽象化するショットは、映画作品では伝統的な常套手段です。よくある冒頭風景は、物語の舞台となる時代や場所を示すための、空、風景、街並みなどを遠景でとり、ストーリーを説明するような、パターンがある気がします。

「すばらしき世界」の場合は、冒頭の窓枠のショットが、物語の地理的な場所を明確に表すのにくわえ、主人公の三上の体調不良や、不安、不満などの内面的状態を表現しつつ、これからはじまる映画空間のトーンをうまく決定づけていて、うまいなあ、と思わせられます。窓グリッドのショットはクローズアップされているため、それが最初は窓ガラスであることが(ほぼ)判然としない、ような演出がなされているわけなのだけれど。

そこで、ならばフィルムにおける抽象風景画のショットはどんな効果があるのか。映画の内容を離れて、映画をみながら、頭のはしでぼんやりと考えはじめました。

抽象的な冒頭の風景ショットは、2時間程度の物語を首尾一貫としたものとし、鑑賞者に「みやすさ」「わかりやすさ」をもたらす装置なのだろうな、それか映画製作者たちの好みかな、と思うけれど。本当にそれだけなのだろうか。

一般的な物語映画の場合、説明的なショットをつなげてナラティブを構築する以上、延々と抽象的な画面を続けることはしない(鑑賞者が「無意味さ」に耐えられなくなるから?)。

具象性の高いショットが、むしろ抽象風景画的な(?)フィルムでも思いつきます。たとえばアントニオーニの「太陽はひとりぼっち」などは(一般的な物語映画であるか、はさておき)、デスクの上にならんだ本やスタンドをうつし、あとは部屋の中の調度とその中にいる人物たちを延々ととらえるシークエンスがしばらくつづきます。
映画の画面上において、オブジェとしてのモノが人物たちのアトリビュートとして機能します。それにより人物たちの置かれた社会的背景や物語の先行きがすくなからず説明され、意味を誘発します。

とはいえ、オブジェのかたちをひたすらうつしつづける行為やその手際そのものが、一義的な意味するモノ、意味されるものの関係を逸脱した解釈を誘発する点で、物語的な機能を従前に果たしえるのか、よくわからないです。

物語映画は、意図された「意味」を正確に読み取ることをひたすら求められるジャンルであり、勝手な解釈は許されない、部分が大きいので、絵画とはだいぶ違う気もするけれど、風景を抽象化することで、解釈の手をのがれでる、意味のあわいみたいなものが発生するのではないだろうかと思います。だったら、抽象風景画ってなんなんだろうな、と思うと、やっぱり作品世界のトーンを決定する機能的イメージ、、。。


「すばらしき世界」から離れてしまいましたが。いろいろ考えさせられました。
中途半端でよくわからないままの状態について、考えてみたいな、と思っています。

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