高齢者向けユニバーサルファッションをやめた理由
はじめた当初は可能性と光を感じていた
私がChiarettaブランドを立ち上げたのは2008年。
後期高齢者医療制度がスタートした年でもあり、また前年の2007年には団塊世代の一斉退職が始まった。
時は高齢市場に目が向く状況だった。
しかし私は、高齢化社会になるから高齢者向けユニバーサルファッションを始めたわけではない。
単にお婆ちゃんたちと喋るのが好きで楽しかったから。
そして、五十肩になった母が、自分で思うように服を着ることができず悔しがっている姿を見て「作り方の工夫次第で楽に着られるのにな~。」と、ふと思ったから。
母の五十肩を見て「人は老化していくものだ」ということを実感した。
このことがきっかけで
そうだ、お婆ちゃんたちが着やすくて可愛くなる服を作ろう!
と思い、それが高齢者向けユニバーサルファッションの始まりだった。
このコンセプトに共感してくれた小野さんをアシスタントに迎えて早速サンプルづくりに取り掛かった。
小野さんは私の両親の会社でパート従業員として働いてくれていた当時63歳の女性。
彼女は若くしてリウマチを患い、障がい者手帳も持っていた。
両親の会社である時、小野さんが「清掃の仕事は体力的に厳しくなってきたので辞めさせてほしい」と申し出があった。
私は彼女が洋服作りが好きで、身に着けている洋服の殆どは自分で作ったものだということを知っていたので、このコンセプトや私の考えを話してみた。
小野さんはとても共感し、ぜひ手伝いたいと申し出てくれた。
私にとって小野さんは指標の一つでもあった。
小野さんが持てないファスナーの持ち手は使わない。小野さんが掴めないボタンは使わない。
40代でリウマチを発症しフォークを握ることができないほどひどい状態だった小野さんは、医師に処方された薬が奇跡的に絶大な効果を発揮しミシンで洋服を縫うことができるまでに回復していました。
但し、肺の機能と引き換えに。
薬の副作用の影響で肺に重大な機能障害があり、それが障がい者手帳を持つことになったそう。
小野さんはこんなことを言っていました。
「この手帳、便利だよ。」
「でもね、こんな手帳、持たなくていいなら持ちたくないよ。健康な体が戻るなら。」
私は「そうだね。」と涙ぐむことしかできなかった。
このような思いをした小野さんだからこそ、高齢者向けユニバーサルファッションのコンセプトに共感し、是非手伝いたいと申し出てくれたのだと私は思う。
そして小野さんは
「このような服が世の中にあったら、たくさんの人が希望を持つことができると思う。」
といってくれた。
こうして、私は小野さんと二人三脚で大きな可能性と光を感じながらモノづくりをスタートさせた。
自分で始めるしかなかった
私は起業したかったわけではない。もちろん社長になりたかったわけでもない。
ではなぜブランドを立ち上げたのか?
それは当時、高齢者向けユニバーサルファッションという新規事業を理解してもらえる土壌がどこにもなかったから。
社内ベンチャーなどで「高齢者向けの商品をやりたい」といえば、やらせてくれるところはあったかもしれない。
しかし、2、3年。早ければ1年で結果を出さなければ事業性が無いと判断されて潰されてしまうだろう。そして失敗したというレッテルを貼られる。
アパレルとは古くからある産業だが、高齢化は新しい領域である。
未曽有の人生100年時代と表現されるように、誰も経験したことのない未知の領域である。過去の成功体験や過去の方程式は通用しないのである。
また、人生の大先輩である高齢者に年下の現役世代がどれだけ正論を吐いても、やはり通用しない。
それが簡単にできていたら今頃は高齢者の運転免許返納率はもっと上がっているはずだし、親が認知症の検査を受けてくれないと悩む人もいないだろう。
高齢者に関しては、もっと深く、寄り添って理解を深めなければならい。それは、肩が上がらないから袖ぐりを大きくすればよいとか生地が伸びないと着づらいからニットを使えばよいといった表面的な身体機能の低下についてだけではなく、間違えたくて間違えるのでないのに毎日のようにボタンを掛け違えてしまうとか、必死になって袖に頭を通そうとしてしまったなどの感情に寄り添い、深く知ることが重要なのである。
しかし、このようなことが書かれている教科書はどこにもなく、自分で研究するしかなった。
続けていくうちに情報と人脈が集まってきた
手本となるものが何もなく、手探りでトライ&エラーを繰り返しているうちに「このような展示会に出展してみたら?」といったアドバイスや「こんなことなら教えてあげられる」といったアドバイスを医療関係者や高齢者施設関係者の方たちから頂けるようになってきた。
特にこの頃は、着用者本人(高齢者)ではなく、その高齢者を支えているステークホルダーである医療関係者や施設関係者が特に興味を持ってくれた。
中でも作業療法士。
シンガポールのナーシング・ホスピタルのセラピストの責任者の方は
「シンガポールにはメイドという文化があり、富裕層の高齢者介護についてはメイドの仕事と認識されているが、セラピストの立場から、それは推奨できない。」
「身の回りのことくらいは自分でやらないとフレイルになり、寝たきりの状態に直行してしてしまう。」
「毎日、当たり前に行う『着替える』という行為の中にリハビリの要素が入っていることは素晴らしい!」
とChiarettaのコンセプトに高い評価をしてくれた。
このような形で、最初は高齢者本人や介護家族ではなく医療関係者や施設スタッフという専門職の方たちに認められていった。
そして、もっと周知した方が良いと展示会の情報や高齢者の機能低下や普段抱えている悩みや課題の提供を協力してくれる人が増え、着用テストなどの協力も少しずつ得られるようになってきた。
次の段階へ進めるため在庫リスクをとる
このようにしてChiarettaの高齢者向けユニバーサルファッションは1型、また1型と何型かプロトタイプ製作からサンプル製作まで進み、製品化できるところまで辿り着いた。
さあ、これからは、これを世の中へ発信して流通させなければならない。
そのために私が最初に行ったのは在庫リスクをとることだった。
もちろん、必要最小限のミニマムロットしかできなかったが、これがきっかけとなりB to Bの問合せが来るようになった。
今までに介護や障がいを前提とした洋服を作る人がいなかったわけではない。
例えば、アパレルデザイナーで高齢両親の介護を経験した人や毎日目の前の患者さんと向き合う作業療法士は「もっと、ここがこうなる服があればいいのに」とか「この部分が大きく開けば一人着られるのに」という思いを持つ。
アパレルデザイナーは、目の前の一人、自分の親のための服を1枚作ることはできるが、それを広く流通させることはできない。
介護とは非常に個別性が高く、ファッションとはとても嗜好性の強いものである。それらを全て受け止め、最大公約数を見出さなければならない。
目の前の1人に有効な機能や工夫が他の人にも有効とは限らないのである。
そして流通させるには在庫を持たなければならない。しかも、介護が必要な高齢者となるとすぐに手元に来なければ時間的に「間に合わない」という人も出てくる。
つまり・・・
在庫を積むしかない。
話を戻すと、最大公約数を見出さなければ量産することはできない。でなければビジネスとして危険すぎる。
では、どのようにして最大公約数を見つけるのか?
ここで前述の協力者が生きてくるのだ。多くの人が共通して抱えている困りごとはどのようなものか。
私は施設や病院、福祉大学へ出向きとにかく意見を聞いた。そしてある程度あたりを付けて各洋服にそれぞれ機能と工夫を凝らし、守備範囲を設けた。
守備範囲というのは、1枚の洋服でどのような人にも対応できるわけではないので、この機能や工夫はこのような状態の人を想定している。といった適応外の人もいるということを明確にするものだ。
この守備範囲を設けておかないとクレームとして戻ってきたり、悪評を付けられてしまう。
こうして最大公約数を見出し、ミニマムロットで生産に掛かるのだがビジネスとして展開するのであれば何型化必要になる。点てはなく面で見せられなければ話にならない。
一型30枚だったとしても5型だと150枚だ。
全く前例のない製品を、まず作って在庫を持つというのはとても怖かった。
しかしモノがなければ話にならいのもまた現実。
口頭でいくら情熱を持って説明しても相手はイメージすらできないのである。
こうして私は在庫リスクをとるという形でChiarettaというブランドをスタートさせたわけだが、ここまででも相当勇気と覚悟が要った。
これを個人のデザイナーができるかというと、それは無理な話しである。
加えて、万が一クレームが発生した時の対応やPL保険を掛けるなどの対応を考えると個人ができるものでもなく、事業活動として在庫を持っているChiarettaにB to Bの問合せが来たのだと今にして思う。
・・・つづく
※今日はここまで。続きはまた書いていきます。