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終わらない物語を創るには、現実と世界観をつなげばいいのではないか。

今日、ジャンプのスポーツ漫画「ハイキュー!!」と実際のバレーボールVリーグがコラボしたスペシャルマッチがありました。

この企画がめちゃくちゃ良くて、そして「前から私がやりたかったこと!そうそうこれこれ!」と思ったので、感動冷めやらぬ内に書いておきます。

物語に助けられたからこそ、その世界がずっと続くといい

人によって程度の差はあると思いますが、フィクションやノンフィクションの他人の物語や、その中の言葉、エピソードによって気持ちが助けられたり、前向きになれたり、ターニングポイントになった経験は誰しもあるのではないかな、と思います。
子どもの頃に見たドラマがきっかけで将来の夢を決めた人、ファッションや趣味が大きく影響されるなど。
たとえば私は、最初の転職は完全に宇宙兄弟を読んで決意しました。

しかし、ほとんどの物語は始まったら終わりがあります。(ハイキュー!!も先日完結してしまいました)終わりがあるからこそ物語だし、作者という人間が生み出している以上永遠に続くということはありえない。
でも”物語”が自分の人生に強く作用すればするほど、「あの時自分の背中を押してくれたあの人や、あの世界がどこかでずっと続いていたらいい」、なんなら自分がいるこの世界と別物ではなく「本当に今もどこかで同じ時間軸を生きていたらいい」と思うのです。絵空事じゃないと信じられた方が、行動に作用しやすいでしょ。

はじめから現実世界と接続している物語があればいいのではないか

「物語を終わらせない」手段のひとつとして二次創作があるかと思います。ファンが原作ストーリーやキャラクターの関係性に解釈を入れて、オリジナルのエピソードを創作してしまうという方法です。
オタクの遊びだと線を引かず、ちょっとpixivとか覗いてみてもらいたいのですがすごくクオリティの高いものだと、絵もエピソードも上手すぎて原作のエピソードだったかファンアートだったか分からなくなっちゃうものも。
二次創作のクリエイティビティについては「俺たちのBL論」がおもしろかったです。BLに限らず、解釈して広げて世界を拡張していくことの創作の面白さが語られています。

物語の拡張という意味で同人の世界は奥深く楽しいのですが、「物語を終わらせない」という趣旨に対しては二次創作という手段にも限界があると思っています。それは、あくまで「生み出し手」と「受け取り手」が存在するということ。一人の原作者に依らないで複数の生み出し手がいることで世界の広がりの可能性は掛け算で広がりますが、それでもやはり自分が共感できる切り取り方や解釈に絞っていくと限界は割と早く来てしまう。

で、私が考えているのは「一歩メタ的な設定=物語の世界観自体に現実世界との接続点があれば、終わらない物語が実現するのではないか?」ということです。
いくつかそれに近い体験をしたので事例を挙げていきます。

事例1:シネマライズのパンフレット内連載「映画を食卓につれて帰ろう」

かつて渋谷にあったシネマライズという映画館に通っていたのですが、

シネマライズでの楽しみの一つに、劇場オリジナルのパンフレットがありました。その最終ページに「映画を食卓に連れて帰ろう」という連載があり、これが私が初めて体験した「フィクションが現実に混入してくる現象」だったような気がします。

映画に出てきた食べ物や、あるシーンをモチーフにした料理のレシピが載っているというもの。今でこそコラボカフェなどが当たり前になりましたが、当時はかなり斬新な企画でした。

一番憶えているのは、アメリに出てきたクレームブリュレの作り方が載っていたパンフレット。映画きっかけで流行したので当時クレームブリュレ自体に馴染みがなかったのですが、「あ、パリに行かなくてもこのレシピで作ればアメリが食べてたものと同じもの作れるんだ」と思ったんですよね。

事例2:リリイ・シュシュのすべて

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現時点で私が思い描いている体験に一番近いのが、岩井俊二監督の映画「リリイ・シュシュのすべて」と関連した「リリイホリック」というWebサイトです。

リリイ・シュシュという架空の歌手(実際はデビュー前のsalyuで、リリイ・シュシュ名義でアルバムリリースもしている)のファンサイトという設定で、そこに集まるファンたちがハンドルネームで会話をしているbbs。実はbbsでやりとりしている何人かが同じ中学の同級生で、ハンドルネーム同士では心通じながらも現実の学校ではいじめ関係にある、という話。

映画原作にあたる小説も岩井監督が書いているのですが、

小説自体がbbsの会話をベースにしながらその背景にある人間関係を描くという構造になっています。物語の主線を担う人物は岩井監督自身がハンドルネームを使い分けて会話を進めているものの、bbs上では設定に乗っかった一般の人もやりとりに参加しています。(=共犯関係)

で、このbbsがすごいのは実際にオンライン上に存在しているだけでなく、映画の公開から20年近く経った今でもまだ「リリイ・シュシュのファン」という設定を守った一般の人達によって更新され続けていること。
岩井監督が紡いだフィクションの世界、架空のリリイ・シュシュというアーティストとそのファンサイトでの集いは今でもずっと生きているのです。

事例3:シンゴジ実況、芙蓉録

20年前はbbsでしたが、現代ではSNSを使うとパラレルワールド的な企画は作りやすくなっています。

シンゴジ実況のタグは映画「シン・ゴジラ」の作中のタイムラインに合わせて、自分の現在地だったら起こるだろう事象や、合成画像でゴジラの目撃情報をTwitterのタイムラインに上げていった企画。企画と言っても公式が仕切ったわけではなく、自然発生的にうまれた遊びでした。

もし映画のあの日に映画通りのことが起こっていたら日本は・自分はどうなっていたか、本編に描かれていないエピソードや事象をTwitter上で沢山の人が妄想して積み上げていくことで世界が拡張されていきました

タイムラインをハックしたTwitterの事例には、芙蓉録というアカウントもあります。終戦の年の7月から9月にかけての出来事を、同じ日につぶやいていくもの。

終戦の年に何があったのか、日本の夏のこの日にどんな事があったのか追体験できる実況は毎年botが繰り返していきます。
これらは、タイミング・同時性等の「時間」を世界観との接続のトリガーにしたパターン

事例4:F.C.Real Bristol

ここまでは物語が先にあって現実世界に接続した事例でしたが、「接点」が先にあって世界が膨らんでいったもの。

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通常サッカーチームという主人公が先にいて、その人たちのために必要なツールとして開発される「チームユニフォーム」や「サポーターグッズ」。
F.C. Real Bristolは、ファッションアイテムが先にあってその世界を補うためのブランドコンセプトとして架空のサッカーチームが設定されたそう

また、SOPH.店舗の設計も手掛ける建築家 荒木信雄(The Archetype)とともに<F.C.R.B. Stadium Project>を立案、計画。この架空チームのホームスタジアム建設計画とし、スタジアムの設計、模型製作の他、Tシャツ、お弁当箱等、その販売した収益金がスタジアムの建設基金に充当されるというサポーター参加型のコンセプトのもと実施。

ファッションブランドが生み出した架空の設定にも関わらず、架空のスタジアム建設にまで世界が膨らんでいます。

ある設定=物語を媒介にすることによって、その世界に存在しうる他のモチーフやオブジェクトが自然に生まれてくるのですよね。

ハイキュー!! ✕ V LEAGUE コラボイベントのよかったところ

そして今日のハイキュー!!コラボイベント。
スポンサーバナーや事前Webサイトの作り込みなどディティールの貢献が大きかったのは言うまでもないですが、一番は良かったのは「選手にコスプレをさせなかった」ことだと感じました。

アドラーズとブラックジャッカルはマンガ内の架空のクラブチームなのですが、そのチームメンバーとしてプレイする選手はリアルなVリーガー。そして「日向役の●●です」とか「影山役の●●です」とせず、選手本人としてチームに所属しているという体で企画されていたのが良かったなと。

仮に「日向役の●●選手です」としていたら、原作の日向にいかに寄せられるか、似ている/似ていない、私の思う日向はこうじゃない、のような二次創作と同じ議論になってしまっていたと思うのです。解説の流れで髪型をキャラに寄せてストパーかければよかったのにみたいな弄りがありましたが、むしろそういうことしなくて良かったのではないかと。

マンガの中のキャラクターたちの”チームメイト”が現実世界に実在するということになったので、今日このコラボイベントを見ている人にとってはVリーグそのものが「ハイキュー!!」の世界にアクセスする接点=トリガーになれたのではないかと思います。

強度の高い世界観への接続点を能動的に作れば、その世界に参加できる説

00年代初頭は世界観を無視してキャラクターだけ独り歩きさせる「データベース消費」という言葉もありましたが、今の私個人的には、何周か回ってむしろキャラクター不在の世界観だけの方が消費(享受)され得るのではないかと感じています。なんとなくですが、Webだの諸々の環境の変化により創作のハードルが下がった?造り手が変わった?ことにより、80年代の世界観消費と違った意味で世界観へのアクセスがしやすくなった感じがする。

世界に強度を持たせるにはその中にいるキャラクターや人間像は欠かせないのですが、一定それが形作られれば、むしろキャラクターがいたであろう世界観や設定そのものの方が物語になりうるのではないか。
そしてそこに自分が接続できれば、終わらない物語が実現できるのではないかと思っているのです。だって接続できた瞬間に自分は既にそちらの世界の住人だから。

究極の現実逃避は、逃げ場の世界を現実に接続させてしまうこと。
どうにも人生で地に足がつかない私にとっては、不老不死を希求するレベルで「物語を終わらせない」方法が必要なのです…。

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