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サイタマノラッパー

「サイタマノラッパー」という映画をみた。

映画マニアの方々から、かなりの高評価ということで。
かなり期待して、観た。


上映時間、約1時間40分。
終わったあとの感想は、

「長かった・・」
「よさがあまり、わからなかった」

だった。


ラスト5分ほどのシーンで繰り広げられた、主人公によるラップは、よかった。ラップが始まったとき、この映画の中で初めて、「いいぞ、いいぞ」と思えた。

だけど、それもどこか、力のなさ。
行き場のなさ。惜しさ、のようなものを感じて。

なんだろう、この空回り感。
「その腑抜け具合が面白かった」と言えば、面白かったのかもしれない。



とにかく「よさ」が理解できなかったから、映画のレビューを読んでみた。少しは理解できるだろうか、と思って。


星5や4をつけているレビューを読んでみた。

「胸が熱くなる」とか、「何度も観たくなる」とか。

これだけ読んでも、やっぱり全然、映画のよさがわからなかった。


なのに、星1をつけている人のレビューに、少し心が動いた。

「絶対に、星1。全然良くない。認めない。
 なのに涙が止まらない。」

少し、「あ。」と思った。
そのあとで、「なるほどもしかしたら」と思った。

少し、胸が痛いような気持ちになった。
あとは、自分の頑固さを思い知った。

一緒に観ていた人は、涙ぐんでいた。
その顔を見て、なぜだか胸が締め付けられた。



これまで歩いてきた人生の中の、「今」だから言えることだけど、私は、
「諦められなかった」人間なんだなと感じた。

もっと言うなら、
「諦めるくらいなら、本当に死んでしまう」部類の人間なんだとも。

これは、強さと言えるのか?
逆に、ひどく弱いとも言える気がする。
神経質だ、とも言える。
おかげで、自分の身を自ら雑巾みたいに絞って、自爆しかけた過去がいくつもある。

できないことなんて山ほどあるくせに。
だというのに、あまりに神経質で、あまりに頑固で、こんなにも妥協できなかった。

「諦めない」にしても、やり方を間違えていただけなんだと、今ならわかる。



やっぱり、今、幸せに生きている自分が、馬鹿みたいに奇跡で、今まわりに居てくれる人たちは、馬鹿みたいにすごいと思う。
ってなんか変な日本語になっちゃう。



全くわからなかった映画が、こうやって文章を書いているうちに、だんだん、少しずつ、少しずつ。

その「よさ」が、自分の腑に落ちはじめてきている。
ような気がする。

いや、相変わらず全然わかっていないのかも。



わからなくてもいい。
わからないままでいい。

ただ、なぜだか、無性にいま、泣きそうだ。

映画を観て、「いい体験をしたんだな」と、いま、感じている。




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