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翻訳を道しるべに 字幕翻訳者 渡辺はなさん

渡辺はな
 1983年生まれ。横浜市出身、シドニー在住。字幕翻訳者(英日・中日)。担当作品は『フューチュラマ』『フィラデルフィアは今日も晴れ』(以上共訳)、『狂恋詩/狂った果実』『蜜の味』など。最新担当作『ザ・ブローラー/喧嘩屋』が4月2日からJAIHOで限定配信。
Twitter:@the_chen_5
HP:https://watanabe-translates.studio.site/

ワタシハ ダ~レ?
 私は昭和の終わりごろ、カリフォルニアで日本人の母とアメリカ人の父のもとに生まれ、横浜で育ちました。これだけお伝えすると、「あらまー、異国情緒あふれる横浜出身のハーフなんて、さぞかしインターナショナルな育ちなんでしょうねえ」と思われそうですが、いえいえ、とんでもない。両親は私が1歳半になる頃にはとっくに離婚したらしく、私は日本で日本人の母に、日本人として育てられました(ニホン、ニホンとうるさくて失礼)。家庭内では完全に日本人として育てられているのに、一歩外に出れば「ハーフ」「ガイジン」と指を差されるわジロジロ見られるわ。父のことが知りたくて食い下がっても、母は一切教えてくれませんでした。はて、私は一体何者なのか? 見た目と中身のギャップに悩み、イヤというほど「周りと違うワタシ」を意識していた子供時代。おまけに、「ハーフ? へえ、じゃあ英語しゃべれるんだね」「……(説明するのダルいな)」このやりとりが大変気まずい&面倒くさい。やがて中学生になると理由もなく「いいな~」「カッコイイ~」と崇められ、しまいにはあだ名が「ベッキー」になる。なんなんだコレは。「アイデンティティ」という言葉を知るずっと前から、私のアイデンティティは木っ端みじんに砕け散っていました。

レオに捧げた青春
 そんな感じでコンプレックスまみれのまま思春期を迎えたわけですが、ここで運命の出会いが訪れます。彼の名前はレオナルド・ディカプリオ。そうです、ヨン様が一世を風靡した少し前には、レオ様がいたのです。クラスメートがボーイフレンドと甘酸っぱい恋を謳歌しているのを横目に、私はレオとの大(妄想)恋愛に勤しんでいました。『タイタニック』を劇場で4回鑑賞し、サントラを購入して創作ダンスを極め、ケイト・ウィンスレット(レオの相手役女優)のモノマネを磨き、辞書を引き倒してレオのエージェントにファンレターを書きました。レオの特大ポスター欲しさに、お小遣いを映画雑誌『ロードショー』につぎ込み、学校の教科書を差し置いてむさぼり読みました。振り返ればあの日々は現実逃避に他ならなかったわけですが、映画が人生にもたらす喜びに初めて触れたのは、間違いなくあの時期だったと思います。

 皆さまは覚えていらっしゃるでしょうか。レオのビジュアル最盛期だった当時、彼の主演作品の字幕は必ず戸田奈津子先生が担当なさり、レオが来日すれば必ず隣で戸田先生が通訳を担当なさっていたことを。銀幕に映る麗しいレオの顔と、エンドクレジットで輝く戸田先生のお名前。おお、これぞ黄金コンビ。なるほど、字幕翻訳者になればレオとキャピキャピできるのか(※違います)。そう解釈した私は、少しでもレオに近づくべく、戸田先生が学んだ津田塾大学に入学しました。不純な動機はともかく、字幕翻訳者への猛烈な憧れを抱いていましたが、自分などが入れる世界だとはつゆにも思わず、どうしたらその道に進めるか調べたりもしませんでした。憧れは、ただ憧れのまま。

 津田塾時代の思い出と言えば、戸田先生が特別講演でお越しになったこと。私はここぞとばかりにメルアドつきのファンレターをしたため最前席でスタンバイ、講演終了後に舞台裏に猛ダッシュして先生に差し出しました(何という不届き者!!)。アシスタントの女性が訝しげにそれを受け取り、先生は肩で息をする私に一言「あなた、愛媛の知事に似てる」と告げて去っていきました。万が一の時のため、メルアドはあのころから変えていません。

異文化の世界へ①ニュージーランド
 そのような調子で、レオ漬け&映画漬け&ハリウッドのうんちくだけに詳しいままぼんくら学生生活を送っていましたが、やがて就活の壁にぶち当たります。小学生~大学生時代に至るまで、周囲に合わせようとあくせくするあまり、やることなすこと全てが空回り、はみ出しまくり&ズレまくりの女学生に成り果てた私は、ここで初めて人生の舵を切りました。それはずばり、自分探しという名目の海外逃亡。就活に全力を注ぐ同級生とは裏腹に、私は友人の誰も足を踏み入れたことのない未知の国・ニュージーランドの大学に編入学しました。卒業後にエンタメ業界に潜り込むことを視野に入れ、選択したのはメディア研究科。在学中はニュージーランドの映画にたくさん触れました。留学生寮にはありとあらゆる人種の学生が暮らしていて、何でも金で手に入れてしまう上海のボンボンから、婚前旅行のノリで来たニューヨークのカップル、獣医を目指すノルウェー人の女の子、国費留学生の超秀才インド人、恋愛依存症の兆候がある台湾女子、宣教師の両親のもとに生まれフィリピンで育ったニュージーランド人、いつも一緒のオランダ人長身女子2人組など、それはもうバラエティ豊か。「みんなちがって、みんないい」そこには、金子みすゞの世界が広がっていました。なんという居心地のよさ! 根拠のない自信をつけた私は心ゆくまで国際交流を満喫し、さらには父捜しを決行し、居場所を突きとめ、カリフォルニアで再会を果たしました(このネタを入れると永遠に書き終わらない気がするので割愛します)。

異文化の世界へ②シンガポール
 C+を量産しながら無事に大学を卒業したものの、一介の留学生が就ける仕事がそのへんに転がっているわけもなく、ニュージーランドに留まることは泣く泣く断念。ラジオ局かテレビ局にでもアタックすればきっと仕事に就ける、などという考えは甚だしい勘違いでした。当時は地元の学生でさえ職を求めてイギリスやオーストラリアに渡るような現状でしたので、しかたありません。あれこれ考えた結果、新卒でも仕事が得やすい&就労ビザが下りやすいという噂を聞きつけ、イチかバチかシンガポールに渡りました。最初のうちこそ、雇ってくれた会社の社長が夜逃げしたり、ここで書くのがはばかられるようなゴタゴタに巻き込まれたりもしましたが、やがて日系企業に採用されてまっとうな生活を送るように。そこで社内翻訳(のマネゴト)を担当したことが、「ライフワークとしての翻訳」を漠然と意識するきっかけになりました。とはいえ、スキルを磨くために自主的に勉強に励むわけでもなく、身につけたものといえばベリーダンスのクラスで教わった悩ましげな腰つきだけでしたが。なんと情けない。

 シンガポールでの生活はカルチャーショックの連続で、大変刺激的なものでした。シンガポール人のしゃべる英語・通称シングリッシュは実に興味深く、挨拶代わりの「ハブユーイートゥン?(Have you eaten?)」は中国語の「你吃了吗?」、「スティル キャ~ン(still can)」は「还可以」、「キャンノアキャンノッ?(can or cannot?)」は「可不可以?」、という具合に、中国語をそのまま英語に置き換えたフレーズがゴロゴロ転がっています。「こんなの世界に通じる英語じゃない! 意地でもシングリッシュはしゃべらないっ!」と鼻息を荒くする友人もいれば、外国人の前とローカル民の前とで巧みに使い分ける友人もいました。一方の私はというと、いつの間にやらニュージーランド訛り&シングリッシュが融合した国籍不明の英語をしゃべるようになり、初対面の人々を混乱させるのが特技になっていました。「君のバックグラウンドは?」と聞かれれば、怪しい笑みを浮かべながら「当ててごらん?」と返す余裕も。いやはや、我ながら成長したものです。

取り戻した思春期の情熱、ようやく見つけたアイデンティティ
 とにもかくにも、シンガポール時代に今の夫と出会い、彼の転職を機にオーストラリアへ。その後フラれることもなく無事に結婚、一人っ子のリバウンドであっという間に3児の母となり、隙間時間を見つけてはgengoの翻訳者として登録したり、ちょっとしたウェブライターの仕事をかじったりしていましたが、しだいに物足りなさを覚えるように。

 そうして私が長年あてもなく漂流していた間、レオは常に第一線で活躍を続け、お行儀よくプリウスを乗り回し、相変わらず20代のモデル美女をとっかえひっかえし、ついにはアカデミー賞主演男優賞を獲得して映画界の頂点に君臨していました。そんな彼を仰ぎ見て、私は再び舵を切ります。よし、ここはひとつ原点回帰だ。部屋中レオのポスターだらけだった15歳の自分に立ち返り、字幕翻訳者を目指すことを決意したのは、35歳の時でした。

 字幕翻訳の勉強を始めてからは、まるで心の中の霧が晴れたよう。違和感も疑念も迷いもない。今までと確実に何かが違う。あんな気持ちは初めてでした。暇さえあれば先輩方のブログや業界雑誌を片っ端から読み漁り、スクールで一心不乱に勉強しました。修了後はトライアルに一発合格、とんとん拍子に初仕事を頂戴し、以後がむしゃらに突っ走りながら今に至っています。試行錯誤を重ねながらも途切れなくお仕事をいただけたのは、ひとえにスクールの先生に恵まれ、お取引先に恵まれ、優しく手を差し伸べ導いてくださった先輩方に恵まれたからこそ。2年連続のロックダウンという一大イベント(?)を経て、あらゆることから解き放たれた昨年は、思い切ってオンライン勉強会を立ち上げました。居住地も出身スクールも専門知識も専門言語も異なる翻訳者さんたちと、知恵を出し合い、孤独を癒やし(主に私が)、傷を舐め合い、励まし合い、支え合える場ができたことは、本当にうれしく思っています。

 人目を避けるように日本を離れたあの日から20年弱、私はようやく自分探しにピリオドを打ち、「翻訳者」というアイデンティティを見つけました。大人になっても、社会経験を積んでも、異文化・多文化の環境に身を置いても、母になっても見つからなかった答えを、ようやく手に入れました。白髪の老婆になるまでずっとこの仕事を続けていくことが、映像翻訳業界への恩返しになるとよいのですが! 今後もアツくてウザい翻訳者を目指して精進する所存です。

オススメNZ映画あれこれ
 レオへの愛を散々アピールしておきながらアレですが、私の心の故郷ニュージーランドを舞台にした映画を何本かご紹介します。

ボーイ』(2010年)
 ニュージーランドの国宝、タイカ・ワイティティ脚本・監督・出演作品。幼くして母を失った少年ボーイ(でもってマイケル・ジャクソンの大大大ファン)と、ムショ上がりのダメダメな父親の物語です。脇を固める子役たちが本当に素晴らしい。スリラー×ハカのフュージョンダンスが見られるのは、間違いなくこの作品だけ!

ハント・フォー・ザ・ワイルダーピープル』(2016年)
 こちらもタイカ・ワイティティの脚本兼監督作品かつ、ニュージーランドの歴代興行成績第1位(2022年3月現在)に輝く大ヒット作です。ひょんなことから逃亡劇を繰り広げるハメになった里親子のドタバタ劇に抱腹絶倒。ワイティティ氏がちょい役でボケ倒していますので、探してみてください。

乙女の祈り』(1994年)
 メルヘンなタイトルにだまされませんよう。1954年にクライストチャーチで発生した殺人事件を描いています。殺人犯は友情を越えた関係で結ばれた女子高生2人組、犠牲者は女子高生①の母親でした。ケイト・ウィンスレットのデビュー作であり、監督は『ロード・オブ・ザ・リング』を撮る前のピーター・ジャクソン。大学時代に講義室で観た、思い出いっぱいの1本です。

ピアノ・レッスン』(1993年)
 スコットランドからニュージーランドにお嫁にやってきた子持ち女性エイダが、マオリじゃないけどマオリ族の一員として生きるワイルドな男性と激しい恋に落ちてしまう物語です。ピアノを弾くエイダのうなじにぬっと伸びてくる手がエロい!監督は『パワー・オブ・ザ・ドッグ』のジェーン・カンピオン。初めて観た時は衝撃が強すぎて、濡れ場しか思い出せませんでした。テーマソングが最高に美しい!

ワンス・ウォリアーズ』(1994年)
 こちらも大学の講義でピックアップされた映画です。先住民マオリ族が抱える社会問題をとことん掘り下げた作品。観るのがつらい映画ですが、ニュージーランド=青い空と緑の牧草と羊とラグビーの国、というイメージを持っている方にこそオススメしたい1本です。

終わりに
 乱筆乱文、大変失礼いたしました。ためになることを何ひとつ書かないまま終わりを迎えてしまいましたので、敬愛する故太田直子さんのお言葉をもって締めくくりといたします。

「人生って計画的には生きられないじゃないですか。だからあまり恐れずに、いろんなところに迷い込んで、迷走して生きていった方が楽しい人生が送れるんじゃないかな、と。そういう気持ちです。案外、どこかにすごい出会いが待っているかもしれませんし」

 回り道をして、寄り道をして、遠回りをして、迷いながらも、翻訳を道しるべに歩めますように。

渡辺はな
 1983年生まれ。横浜市出身、シドニー在住。字幕翻訳者(英日・中日)。担当作品は『フューチュラマ』『フィラデルフィアは今日も晴れ』(以上共訳)、『狂恋詩/狂った果実』『蜜の味』など。最新担当作『ザ・ブローラー/喧嘩屋』が4月2日からJAIHOで限定配信。
Twitter:@the_chen_5
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