181207夕顔イベントFB

講演会「源氏物語『夕顔巻』の地理をたどる」に参加しました

広報デザインをさせていただいた講演会が開催されました!
京都市下京区140周年記念事業の一環で開催された松原通界隈活性化活動プロジェクト委員会主催の講演会です。

まち土地の歴史を知ることは、まちづくり活動をする上で大いに活かせるはずだと常々考えています。
が、歴史が苦手なので、源氏物語を通して学べるのは嬉しい!

そんな私が講演会を聞いて学んだことは、
当時の生活を知ることでまちの本質が見えてくる
ということでした。

講演内容 〜夕顔の家と「なにがしの院」の場所を探る〜

源氏物語本文の記載をヒントに、夕顔の住まいが、現在の松原東洞院の北東角であることを特定。

そして、夕顔が亡くなった場所(本文中の「なにがしの院」)を推察。
なにがしの院の場所は諸説あり、3つの説について参考文献を引用してご教示いただきました。
新説が説得力あって食い入るように聞いてしまいました。

平安京時代の地図が配られ、そこに書き込みながらお聞きしました。

お話を聞いて思ったのは、私は平安時代の生活がどんなものか全然知らなかったのだということ。
光源氏はこの道を通っただろう、その道幅はこれくらい、とか、夕顔の家は貴族の屋敷ほど大きくなかったはずで、1区画に何軒も立つうちの一棟だろう、とか。
それらを知ることで、物語の向こうに実在した紫式部たちが実感できました。教科書の中でしか知らなかった歴史の輪郭が見えてきます。
すると現代との比較もしやすくなり、違いも鮮明に見えてきました。

歴史から感じられるまちの本質

個人的には、正直、松原通は京都の中ではあまりメジャーなイメージがなく、商店街がありますが、なぜここに商店街?とちょっとした違和感のある雰囲気を私は感じてました。

平安時代は、松原通は「五条大路」の名で(その後、2筋南の通りが五条通となった)、界隈では道幅も広い方だったようです。
今回の講演会によると、夕顔の家が面していた大路で、「なにがしの院」もこの付近だったと推察され、さらに夕顔の亡骸を弔うため鳥辺野へ向かった時の道でもあると。

当時の主要な通りの一つと思われ、でも貴族の光源氏にとっては賑やかで落ち着かないというエピソードも(笑)
その後に都市の構成が変わってもなお人を惹きつける力、特に高貴な文化というより町衆の活気が溢れる性質が土地に根付いているのかも、と考えたらなんだか腑に落ちました。

千年経っても残っていることがあるとしたら、しっくりきていたり、合理的であったりするからではないでしょうか。
そこにまちの本質があるように思います。
そういうものは大事に守り続けていくと、無理なく続けていけそうです。持続可能性。

時代に合わせて変化するべきことも多いですが、まちの本質はしっかり捉えて守ることも大事でしょうし、どう変えていくかの道しるべにもなり得ると思います。
少し前までは「変わらなきゃ、変えなきゃ」と焦りが強かった私ですが、変わらなくてよいこと、変わるべきではないこともあるのだと、その見極めが大事だと、考えが変わってきました。
今回は源氏物語を通してそのヒントをいただけた講演会でした。

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