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出所した2人の少年の更生のために。

コロナ禍に逮捕された2人の少年を刑務所からレスキューした。10か月間かかった。日本でいう中学2年生と、高校1年生の兄弟だ。
最初は、コロナ禍の夜間外出禁止令に違反したことで逮捕された。少年たちのグループで安食堂に食べ物を買いに行き、その帰りの出来事だった。夜10時からの夜間外出禁止令の時間帯に外を歩いていた。警察に連れていかれ、留置所に入れられた。しかし、そこでいくつかの手続きを踏めば、数日で釈放されるはずだった。
ところが、留置所にいる間に彼らは別の容疑をかけられることになった。武装強盗と、殺人未遂の罪だ。それはどのように起きたかというと、このような経緯だ。
まずその数日前に、彼らの家のすぐ近所の商店が武装強盗団に襲われた。その武装強盗団は、拳銃、ナイフ、釘とこん棒の鈍器、鉈などで武装した少年たちのグループで、ちょうどその店で買い物をしていた客が襲われた。あたり一面、血の海になるほどの怪我だったそうだが、被害者は一命をとりとめた。強盗団の少年たちは被害者の携帯電話を奪って逃走した。
被害者は、歩けるようになってから警察に届け出るために警察署に行った。まだ犯人は逮捕されておらず、犯人たちが使用した拳銃も見つかっていなかった。
留置所には、様々な容疑で収容されている少年たちや大人たちがいる。このような被害者がやってきたとき、その被害者の前で、収容されている容疑者たちを外に出し、「パレード」とういものが行われるという。そこにいる若者たちの中に、自分を襲った者がいるかどうか確認してほしいと警察に言われた。
彼らを見渡して、「自分を襲った者はここにはいない」と伝えた。すると、警察が、「それでは、知っている顔はいるか」と聞いた。
その容疑者たちの中に、この2人の少年、O君とJ君を見つけ、「この人たちを知っています」と被害者は言った。
それだけの確認で、2人は武装強盗犯と、殺人未遂犯として起訴され、法廷に立つことになった。
2人のうち高校1年生のO君は、実は年齢的にはすでに18歳になっていたため、少年更生院ではなく、大人と同じ刑務所に送られた。ケニアの刑務所はとても過酷で、非常に環境が悪く、命の危険もある。
実際にこの少年たちには劣悪な家庭事情からの非行傾向があり、それというのも、幼いときに実母が病気で亡くなっており、それ以降、父親は酒におぼれるようになり、生活が荒れた。その周辺には幼馴染の少年たちが、すでに武装したり強盗を働いたりしていた。麻薬の売買もある。そこでそのような素行の悪い少年たちのグループはすぐ身近であり、しかも幼馴染なので誰もが顔見知りで、ずるずると引きずられていってそんなグループと夜遊びをするようになった。
実は、彼らはマゴソスクールの卒業生であり、彼らの厳しい家庭環境を知る私たちは、O君に高校進学の奨学金を提供していた。高校に入学できたことを彼は非常に喜んでいた。そんな矢先の出来事だった。
武装強盗はケニアでは非常に厳しく罰せられ、終身刑や死刑と同等の罪となる。そんな死刑囚や終身刑に服す人々が多数収容されているカミティ最高刑務所を訪問して見学や交流をしたことがあるが、絶望的な場所だ。そこから一生出られずに障害を終える若者たちもいる。

また、彼らとつるんでいた幼馴染の若者は、それから間もなく、路上で警察に射殺され、命を落とした。それは、ケニアでは武装強盗を働いたものはその場で射殺していいと大統領命令が出ているからだ。凶悪犯罪が多いため、逮捕して更生して、ということをしていると、犯罪がはびこって手に負えなくなるため、根絶やしにするためにその場で射殺していいという許可が出ている。実際に、ケニアでは警察官も命がけなのだ。

それから私とオギラ先生とで何度も何度も彼らを救い出す努力をしていき、ありとあらゆる方法を使って何とか彼らが終身刑になることを避けたい、更生させたいと願って奔走してきたが、それは非常に困難な作業だった。
そもそも、コロナ禍で法廷が開いていない。彼らに面会することは許されていない。あの手この手で何とか彼らを助け出す段取りをしていき、逆に自分たちの命が脅かされるかもしれない危険を背負って彼らを何とか助け出す段取りをしてきた。

最終的に昨日彼らは長い時間をかけて釈放され、今日は彼らの父や姉もはさんでの非常に重たいミーティングを行った。

逮捕やその後かけらてた容疑は確かにとばっちりだったかもしれないが、実際に荒れた生活を送り、武装した若者たちのグループと彼らは絡んでいた。
そして、話しているうちに「一体何が本当で、何が作り事だったのかさっぱりわからない」ということがいくつも飛び出してきた。例えば、父親が言ったのは、「あの被害者は役者であり、非常にたくさんの箇所を刺されて瀕死の重傷の写真を見せられたが、あれは、陥れるための作り物だ。警察もグルになっている」と。
私はその写真をいくつも見たときに、その被害者に心から同情したものだが、もしかしたらそれは作り事だったのかもしれないということを聞いて非常に驚いた。確かに、それはケニアでは非常にあり得ることでもあると思う。
しかし、もしも実際に彼らが計画的に、武装強盗を働き、瀕死の重傷を負わせていたとしたら・・・・
その写真を見た日は、夜も眠れぬほど苦しい思いをした。
彼らがもしも本当に武装強盗を働いたのなら、その罪を彼らは身をもって償わなければならない。そうなるとケニアの場合、一生、まともな人生を生きることは出来ない。

結局のところ、まだ10代半ばの彼らが、そのような、先に全く希望のない転落した人生を生きるのではなく、本当に反省するのならば人生を変えていく可能性を得てほしいと思った。それは決して簡単なことではないが、オギラ先生が手助けを申し出てくれた。その2人のうち1人、O君だけ、自分の家に引き取り、自分の家族の一員として完全に更生するための指導や監視をしてもいい、必ず変えてみせると言った。もう1名のJ君は、父親が何とかすると約束した。

それで結局は、非常に困難な幾重ものプロセスを経て、彼らをリリースしてもらうことに成功した。10か月間の長い道のりだった。そこで今日は彼らと共に膝を詰めてのホンネの激論を交わしたというわけ。

彼らに厳しく説教をして、彼らにも語らせて、家族とも話をして、リリアン、ダン先生、オギラ先生、OBOGの先輩たちも彼らに心を込めて話をしてくれた。最終的にはこの全員で彼らが更生していくための手助けをしていくことになったが、オギラ先生が自分の家族の中に入れてメンターしていってくれることになった。それは並大抵のことではない。

スラムのような環境だとこのような若者たちの転落や、子供たちの非行というものが一足飛びに銃を持って武装強盗を働くということになることは多く、10代の若者たちが警察に射殺されることもここでは日常茶飯事だ。これがスラムの現実だ。

私は、彼らの死んだ母親はどれほど無念な思いをして、どれほど自分の子どもたちに思いを残して死んだかと思うと、とても胸が痛んだ。
彼らにあれやこれやと厳しい口調での説教をしたが、最終的には、彼らのことを愛して死んでいった母親をはずかしめるようなことは絶対にしてはならない、ということを口を酸っぱくして言うと、彼らの表情が変わった。
「あなたたちはこれから先、順調にいけば、50年や60年は生きるだろう。私はあなたたちより先に死ぬ。20年や、せいぜい30年で私はあなたたちより先にこの世を去るだろうから、そしたら天国に行ってあなたたちのお母さんに会って、あなたの息子たちは良い人間になり、社会に役立つ人間として生きていますよ、と報告したい。それとも、あなたたちは10代で死ぬ覚悟があるのか?みじめに警察に路上で射殺されるような人生を生きたいのか?」
そう彼らに言ったら、彼らの表情が変わり、真剣な顔で私の目を真っすぐに見ていた。

母親の死と貧困の暮らしの中で、父親も含め、彼らがどれほど苦しんできたか、苦労の多い生活をしてきたか、私は長いこと知っている。彼らの父親も、亡くなった母親も、貧困家庭から来ており、彼らの親戚も多くが亡くなっていて、父親は多くの孤児たちの生活や教育を助けてきている。
それでもどうしようもない貧困の中、しっかり者で愛情深かった母が死に、父親は酒におぼれ、転落していくしかなかった彼らを、このまま見過ごしておくことが出来ない。
良い人生を生きられるチャンスを、転落の人生から生き方を変えるチャンスを、彼らには得てほしい。
簡単ではないけどやってみようということになった。天国の母親は見ていてくれるだろうか。来週からキベラスラムの通いの高校に編入する手続きをして、そのモニタリングを生活そのものからしていくという形になる。
10年後、20年後に、彼らが自分の人生を振り返ってみたときに、方向転換することが出来て本当に良かったと思えるように。そして、社会にとって有益な、良い人間として生きてほしい。

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