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ターミナル

新しい場所で暮らし始めることは
わたしにとってきわめてめんどくさいことの一つだ
生活のこまごまとした手続きと
それらのいちいちについて回る感情を総動員して
新しい部屋のサイズや街の空気に合わせなきゃいけない
キッチンのシンクの深さとか
ガスコンロのダイヤルの力加減とか
物干し棹に吊るせるハンガーのぎりぎりの数だとかを
また覚えなくちゃいけないのかと思うと気が遠くなる

新しい場所で暮らし始めることは
わたしにとってきわめて興味をかき立てられることのひとつだ
近所の特に意味のない坂道だとか
踏切の遮断機がぜんぜん開かないことだとか
商店街にいくつかある薬局のうちあの薬局だけは
やたらと化粧品のサンプルを押しつけてくるだとか
そういうことを知りたいと思う

そんな知識を毎日めくり返しているときに、ふと
新しい場所に案外あっさりと来てしまえたことを思い出す

引っ越し屋さんだって頼めたし
新幹線の切符や初めてのICカードを
わたしでも買えた
これまで出会ったどの券売機も
わたしの旅路のために正しく作動してくれた
初めて降り立つターミナルは何も言わずに、
ことさら歓迎するでもなくそこにあってくれた
拍子抜けするほどたやすくなった旅立ちを
それぞれの面持ちで迎える人々が
あちこちのターミナルにいた

あの人が覚えたキッチンのシンクの深さとか
あの人が覚えたガスコンロのダイヤルの力加減とか
あの人が覚えた物干し棹に吊るせるハンガーのぎりぎりの数とか
そういうことを知りたいと思った
誰かの靴底には中央アジアのステップのにおいが残っているだとか
誰かの耳の奥にはまだ乗ったことのないロンドンの地下鉄の想像上の音が流れているとか
誰かの首すじにはモロッコの砂漠の太陽光線が突き刺さったままだとか
誰かの目には二度と会いたくない家族とともに暮らした街が映っているだとか

そういうことを知りたいと思ったし
知らずに生きていたいとも思った

そんなぐちゃぐちゃの思いを抱えたままで
わたしが近所の特に意味のない坂道を登って鶏むね肉と玉ねぎを買いに行くとき
すべての車輪が回り出す
すべての錨が上がる
すべての翼が大気を切り裂く
まさにそのとき、あなたとわたしと知らない誰かのターミナルが
せめて青空であってほしいと願う

(2018年12月)

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